長崎市の北西に位置する西彼杵半島、その外洋に面した地域は外海と称され、島原や天草、五島列島と並ぶ〝隠れキリシタン〟の里として知られる。遠藤周作の代表作であり、キリスト教文学の傑作として西欧からも高い評価を受ける『沈黙』は、この外海地区を主要な舞台としている。
キリシタンの弾圧が本格化するのは江戸時代に入ってからであり、三代家光の時に起きた「島原の乱」の後、迫害は苛烈を極める。
そんな時代に、行方知れずの先輩司祭を追って日本に潜伏した宣教師ロドリゴは、敬虔な日本人信徒たちが凄惨な拷問にも屈せず次々と殉教してゆく姿に衝撃を受け、やがて、惨たらしい事態を放置したまま〝沈黙〟する神へ、抗いがたい疑信を抱くようになる。自身も囚われの身となり、激しい拷問に耐え抜くロゴリゴ。その鋼のごとき信仰がついには〝棄教〟に至る葛藤に、遠藤は自身が思索の果てにたどり着いた神の姿を描き出そうとする。ロドリゴが最後にみた神の姿とは──。
『沈黙』の発表は1966(昭和41)年、遠藤43歳の折である。幼くして洗礼を受けていた彼が、キリスト教について、ことにイエス・キリストに深い関心を抱き続けたことは、その後の作品、73年の『イエスの生涯』、5年後の『キリストの誕生』、2作に見られる深い思索と解釈によっても明らかである。
そこに描かれたのは〝ひたすら無力で惨めな〟イエス・キリストの姿だった。数々の奇跡を演じて信者を熱狂させたイエスは、最後には、弟子たちに裏切られ、信者たちから罵声と嘲笑を浴びせられ、重い十字架を背負って刑場に引かれていった。
その惨めな姿は何を意味するのか。進んでその姿を人々にさらしたイエスの意図はどこにあったのか、遠藤は古今の研究書を丹念にたどりつつ、自身の中にあるイエス像を描き出す。その人間イエスが死後、救世主となって人々の中に甦る姿を確かな足取りで追ってゆく。
浅学な身には、これほどキリスト教の理解に目を開かされた書物に出会ったことはなく、なぜ『沈黙』に続いてこの2作を読まなかったのか、つくづく後悔した。西欧に旅する人には、ぜひ、この名著を事前に読むことをお勧めしたい。

