2025年12月5日(金)

偉人の愛した一室

2025年9月28日

 世に近江商人という。伊勢商人、大坂商人などと同様、単に出身地を示すばかりでなく、それぞれ独自の流儀があったことから生まれた呼び名である。ならば、近江商人を代表するこの人物、日本の五大商社、伊藤忠商事と丸紅を創業した初代伊藤忠兵衛は、どんな商人道を歩んだのだろうか。

 東海道新幹線の米原駅から近江鉄道に乗り換え、30分ほどの豊郷が忠兵衛の生地である。江戸時代、この地を治めた彦根藩が農民に麻織物の生産を奨励し、その販売も許したことから一帯で麻布の商いが盛んとなった。中山道が通り、東国、北陸から京へと向かう人や物資の流れを目の当たりにする地、農民の中には京や大坂、さらに先へと行商の足を延ばし、麻布の卸売り、この地の言葉で〝持ち下り〟を手広く行う者たちも現れた。近江商人とは、これら他国へと打って出た商人たちを指す。

 そんな家の一つ、伊藤長兵衛家の次男に生まれた忠兵衛は15歳で母方の叔父に連れられて大坂、堺、和歌山へと持ち下りに出る。1858(安政5)年のことである。ちなみに伊藤忠、丸紅とも、この年を創業年とする。翌年には遠く下関へと足を延ばしたのは、近江商人たちが瀬戸内から関門海峡、北部九州へと商圏を拡げていたからだ。彼らが長く琵琶湖の水運を担い、船運に長けてきたことと無関係ではないだろう。

敷地内には3つの立派な土蔵のほか、2000年に修繕された茶室も有している。土蔵の内部は現在展示室として活用されており、初代忠兵衛、2代忠兵衛の愛用品をはじめ、多くの資料が今に残る(WEDGE以下同) 写真を拡大

 忠兵衛の飛躍の第一歩は幕府による長州征伐だった。戦禍による物資の不足を見込んだ忠兵衛は、危険を冒して大量の麻布を長州へ運び、大きな利益を手にする。

忠兵衛を成功に導いた麻布のサンプルも展示されており、実際に手に取ることができる

 72(明治5)年、大坂に「紅忠」の屋号で店を構える。麻のほか絹、木綿も扱う呉服太物卸商である。ここを拠点とし、忠兵衛は以降、店舗や事業を広げてゆくのだが、西南戦争とその後に起こった不況に際しては、政府が士族に発行していた金禄公債を買い上げ、これを大坂の両替商に転売して利益を上げている。

 ビジネスチャンスに敏だったことが忠兵衛を支えたことは疑いない。一方で、忠兵衛は店員それぞれの権限と義務を明確にし、重要な決定には店員たちから意見を求める場を設けた。今でいう会議だ。また、店員の士気を上げるために、利益を伊藤家、店、店員で三等分する決まりとした。ボーナスの走りだろう。月に6回、1と6の付く日には店員たちに牛肉をふるまって健康増進に努めるなど、福利厚生も重視した。他にも運送保険や洋式簿記の導入、学卒者の採用など、当時の卸問屋には例を見ない施策を次々と実行してゆく。常に店の2階に寝泊まりし、妻の待つ豊郷に帰れるのは年に30日ほどだったという。


新着記事

»もっと見る