人は老いて後もどれほどのことが成せるものか、この人の生涯が教えてくれる。家業を無事息子に渡し、50歳にして志に向かって歩み出した伊能忠敬、実測によって初めて日本列島の正確な地図を作成した偉業の人である。
忠敬は江戸中期にいまの千葉県に生まれた。17歳で佐原を代表する商家に婿養子に入る。周辺は関東有数の穀倉地帯、伊能家は酒造りや米の売買の他、水運、金融、不動産業などを手掛けた。忠敬は家業をもり立てつつ49歳にして隠居し、念願だった暦学や天文学を学ぶべく江戸に居を移す。高名な天文学者で、幕府から暦の改定を指示されていた高橋至時に弟子入りし、忠敬は17歳下の師のもとで学問に没頭する。
暦の策定には天文学が欠かせない。すでに書籍を通じて基礎を積んでいたうえ、日々、休むことなく天体観測を続ける忠敬に、至時は高い信頼を寄せる。当時、ロシア船の接近が頻繁となり、海防の必要に迫られた幕府は、蝦夷地の地図作成を急ぐ。幕府天文方に就いた至時がその役目を志願したのは、江戸から蝦夷地への距離を測ることで、地球の緯度1度の正確な長さが割り出され、正しい暦づくりが可能となるからだった。実測役に白羽の矢が立ったのは天体観測に長け、しかも財力に余裕のある忠敬だった。歴史に残る偉業の第一歩である。
忠敬が用いたのは当時一般的だった導線法である。海岸線や街道に沿って多数の目印を立て、その地点の方位角を測定しつつ、目印間の長さを測ってゆく。ただし、忠敬は併せて天体観測によって各地の緯度と経度を測定して誤差を補正していった。これが画期的だった。
半年かけて蝦夷地の実測を終えた忠敬は、それをもとに地図を作成する。当初、忠敬にさほど期待をしていなかった幕府は、その出来ばえに驚いた。飛躍への足掛かりをつかんだこの時、忠敬は56歳。まだ人生50年といわれた時代のことである。

