2025年12月5日(金)

偉人の愛した一室

2025年8月24日

当時の町並みが残る
北総の小江戸

 東京駅から千葉、成田を経て電車で2時間ほどの佐原は、利根川や霞ケ浦を擁する水郷地帯にある。江戸時代には水運による物流拠点として栄え、それをいまに伝える町並みが多くの観光客を集めている。

旧宅の前にはゆったりとした小野川が流れ、佐原村用水を、小野川の東岸から対岸の水田に送るための樋橋が架かる。橋の下側につけられた大樋を流れる水が、小野川に落ちる音から「ジャージャー橋」と呼ばれている(WEDGE以下同) 写真を拡大
ジャージャー橋では午前9時から午後5時まで、30分間隔で当時を再現した落水を見ることができる
利根川の水運でにぎわいをみせた小野川沿いは江戸時代の面影が残っており「北総の小江戸」と呼ばれている

 利根川にそそぐ小野川に沿って商家が建ち並ぶ中、その中心地に忠敬の旧宅は残されている。通りに面した店先からすぐ川への石段(だしと呼ばれる)となり、これを使って米や酒を小舟に積み、利根川に係留されている大船へと積み替える。船は悠然たる流れを遡って関宿に至り、そこから江戸川で大消費地へと運ばれていった。

 店横の立派な表門の他は、簡素な商家の造りである。店舗内は土間の先に帳場と座敷があって、実直に商いに向き合う忠敬の姿を彷彿させる。29歳の折に349両だった儲けが、隠居の前年には1262両だったと記録が残る。3倍以上、この数字からも学問に気持ちを移すことなく家業に勤しんだと推察される。

川に面した表門と当時の店舗入り口。現在は門をくぐって内側から店舗内を見学できるが、当時は窓になっている部分が開放されていた
建築当初、店舗は土蔵として使われていた場所を忠敬が改築し、帳場を設けて現在の形になっている

 炊事場でつながれた奥には家族が住まう書院(母屋)が設けられている。忠敬の没後に作られたものだが、伊能家の簡素な暮らしぶりがうかがえる。忠敬がその日の帳簿の確認を済ませ、深夜、ひとり暦学の書を繙いたのもこんな部屋であったろう。

今は展示物が置かれている炊事場は、明治中期頃に書院とつなげられたと考えられているという
母屋の前には江戸時代につくられた農業用水路の一部が残る

 江戸の頃より狭くなった敷地の奥に土蔵が残されていた。忠敬の偉業を伝える測量器具や作成された地図類、貴重な資料の数々はその土蔵に長く眠っていた。それらはいま、川を隔てた「伊能忠敬記念館」に国宝となって展示保存されている。

 蝦夷地を実測した翌年、忠敬は伊豆半島以東の太平洋岸を測量した。さらに、陸奥から敦賀までの日本海側、続いて尾張から伊豆半島までを実測踏破して、わずか3年で東日本の全体像を明らかにする。これが将軍家斉へ披露されて面目を施すと、以降、幕府直轄事業に昇格されて西日本へと拡大されてゆく。当初、忠敬は西日本の実測を33カ月ほどで終える計画だったが、瀬戸内には多数の島々が存在し、実測に大きな障害を伴う場合も少なくない。結果、江戸府内を最後に都合10次にわたる測量を終えたのは1816(文化13)年、忠敬は71歳になっていた。全図の作成を目にすることなく、2年後、江戸にて死去する。

貴重な資料が残されていた土蔵。かなり古くに建てられたもので、扉は観音開きが普及する以前の土の引き戸になっている
旧宅内には山や島の方位・方角を測る半円方位盤や、星の高度を測る象限儀のレプリカも展示されている

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