当時の町並みが残る
北総の小江戸
東京駅から千葉、成田を経て電車で2時間ほどの佐原は、利根川や霞ケ浦を擁する水郷地帯にある。江戸時代には水運による物流拠点として栄え、それをいまに伝える町並みが多くの観光客を集めている。
利根川にそそぐ小野川に沿って商家が建ち並ぶ中、その中心地に忠敬の旧宅は残されている。通りに面した店先からすぐ川への石段(だしと呼ばれる)となり、これを使って米や酒を小舟に積み、利根川に係留されている大船へと積み替える。船は悠然たる流れを遡って関宿に至り、そこから江戸川で大消費地へと運ばれていった。
店横の立派な表門の他は、簡素な商家の造りである。店舗内は土間の先に帳場と座敷があって、実直に商いに向き合う忠敬の姿を彷彿させる。29歳の折に349両だった儲けが、隠居の前年には1262両だったと記録が残る。3倍以上、この数字からも学問に気持ちを移すことなく家業に勤しんだと推察される。
炊事場でつながれた奥には家族が住まう書院(母屋)が設けられている。忠敬の没後に作られたものだが、伊能家の簡素な暮らしぶりがうかがえる。忠敬がその日の帳簿の確認を済ませ、深夜、ひとり暦学の書を繙いたのもこんな部屋であったろう。
江戸の頃より狭くなった敷地の奥に土蔵が残されていた。忠敬の偉業を伝える測量器具や作成された地図類、貴重な資料の数々はその土蔵に長く眠っていた。それらはいま、川を隔てた「伊能忠敬記念館」に国宝となって展示保存されている。
蝦夷地を実測した翌年、忠敬は伊豆半島以東の太平洋岸を測量した。さらに、陸奥から敦賀までの日本海側、続いて尾張から伊豆半島までを実測踏破して、わずか3年で東日本の全体像を明らかにする。これが将軍家斉へ披露されて面目を施すと、以降、幕府直轄事業に昇格されて西日本へと拡大されてゆく。当初、忠敬は西日本の実測を33カ月ほどで終える計画だったが、瀬戸内には多数の島々が存在し、実測に大きな障害を伴う場合も少なくない。結果、江戸府内を最後に都合10次にわたる測量を終えたのは1816(文化13)年、忠敬は71歳になっていた。全図の作成を目にすることなく、2年後、江戸にて死去する。
