日本資本主義の父と称される渋沢栄一。その生涯は、紙幣の顔となり、大河ドラマの主人公となったことで広く知られるようになったが、青年期に尊王攘夷運動に首を突っ込んだり、その後に〝最後の将軍〟徳川慶喜に仕えたり、意外な面を持つことも周知となった。享年91、その絢爛たる人生の記念碑ともいえる建造物が、東京王子の飛鳥山に遺されている。
生まれは埼玉深谷の富裕な農家。自叙伝によれば、10代にして家業に必要な藍葉の買い付けに商才を見せるものの、幕末動乱の気運に触発されて江戸や京に遊学し、縁あって徳川一橋家に仕える。この時代に長男の身で家業を離れることがどれほど難しかったか(しかも男児は他にない)、それを許した父の悲痛と慈愛のほどが自叙伝に述懐されていて、深い感動を誘う。
1867(慶応3)年、慶喜の弟、徳川昭武に随行してパリ万博に赴いたことで、近代資本主義へ目を開かされた。明治政府に出仕した後に実業の世界に転じ、銀行業を皮切りに多岐にわたる事業組織を立ち上げる。支援をした組織を含めてその数500社に及び、うち100社近くがいまなお上場企業として残るというから凄いものだ。
その後は商法会議所や株式取引所の設立に尽力し、さらに医療、教育、文化の推進にも手を伸ばしてゆく。晩年、米国内で排日運動が高まりを見せると、対話の重要性を双方に強く訴えかけるなど、民間外交にも乗り出している。日本経済への影響力に留まらず、社会全般への貢献は他に例を見ないように思う。

