2025年12月5日(金)

偉人の愛した一室

2025年10月26日

渋沢を愛した人たちから
贈られた二つの建築

 飛鳥山は江戸で知られた桜の名所だった。

 79(明治12)年、渋沢はこの地に賓客を招くための別邸を構えた。8000坪を超える広大な地に庭園を整備し、日本館、西洋館、茶室、文庫などを設けてゆく。1901年からはこの地に移り住み、ここで生涯を閉じることになるのだが、建物の大半は45年の空襲で焼失し、わずかに晩香廬と青淵文庫が残った。

晩香廬には丈夫な栗材が用いられており、その名前は自作の漢詩の一節「菊花晩節香」から命名された(WEDGE以下同) 写真を拡大

 晩香廬は17(大正6)年、渋沢の喜寿を祝って清水組(現・清水建設)が贈ったものである。設計は清水組の田辺淳吉で、後述する青淵文庫をはじめ、渋沢に関係のある多くの建築を手がけている。渋沢の好みを知り尽くして作られた一室とは、果たしてどんなものか。

 主には散歩の途中に客とお茶を楽しむためのもので、洋風のこぢんまりとした造りの中に、日本の茶室が十分に意識されている。木造平屋建、屋根には赤瓦を乗せ、これを支える柱や梁には栗材が使われた。外壁には茶室に用いられる錆び壁を塗り、そこにタイルを組み合わせることで、独自の風趣を醸す。後年、洋風茶室とも称されたようだが、それがしっくりとくる外観を呈する。

 大テーブルと椅子が置かれた談話室は、大きな窓からの光に満ちている。内装は、腰壁には萩の茎を使った簾を張り、壁は青貝交じりの砂塗りで仕上げる。船底天井には石膏が塗られ、目を凝らすと、梁の周縁にレリーフが施されている。モチーフは葡萄の実を食べる鳩やリス。多産や平和を象徴するのだろう。

晩香廬の内部は暖炉や火鉢などの調度品のほか、机や椅子といった家具にまで、設計者の細やかな心遣いが見られる。そのデザインは縁起物の動物や果実だけでなく、ハート模様や不思議なものもあり、遊び心が感じられる
テーブルセットの横には六角形の凝った作りの火鉢がある。椅子の背もたれにはハートのモチーフを見つけることもできる
談話室にはリスや鳩が葡萄を食べている姿など、愛らしい様子が表現されている

 ひときわ目を引くのは暖炉だ。周囲を黒紫の化粧タイルで埋め、上部には大きく「壽」と打ち出されたタイルが張られている。左右にはステンドグラス入りの洒落た灯り取り窓が。喜寿をことほぐ遊び心には、渋沢もさぞ満足したのではないか。

暖炉の上には栄一の喜寿を祝う建築であることをあらわす「壽」の文字がタイルでデザインされている
暖炉で使用する道具を掛けるフックには船やヤシの木などが刻まれており、南国風なデザインとなっている

 渋沢史料館の川上恵さんによれば、ここには内外問わず多くの賓客が訪れ、催し事を楽しんだり、昼食がふるまわれたり、晩香廬では、お茶を楽しみながら歓談する、そんなもてなし方だったという。どこか、田舎の下屋敷に客を招いて遊んだ大名たちの交友を思い起こさせ、渋沢の江戸への追慕を感じる。渋沢は終生、徳川慶喜を慕い続けた。

 その慶喜の伝記を刊行するのが、渋沢積年の願いだった。そのために集められた膨大な史料の保管を目的とし、渋沢を慕う後進たちにより、80歳と子爵への昇格を祝って贈られたのが青淵文庫だった。


新着記事

»もっと見る