渋沢を愛した人たちから
贈られた二つの建築
飛鳥山は江戸で知られた桜の名所だった。
79(明治12)年、渋沢はこの地に賓客を招くための別邸を構えた。8000坪を超える広大な地に庭園を整備し、日本館、西洋館、茶室、文庫などを設けてゆく。1901年からはこの地に移り住み、ここで生涯を閉じることになるのだが、建物の大半は45年の空襲で焼失し、わずかに晩香廬と青淵文庫が残った。
晩香廬は17(大正6)年、渋沢の喜寿を祝って清水組(現・清水建設)が贈ったものである。設計は清水組の田辺淳吉で、後述する青淵文庫をはじめ、渋沢に関係のある多くの建築を手がけている。渋沢の好みを知り尽くして作られた一室とは、果たしてどんなものか。
主には散歩の途中に客とお茶を楽しむためのもので、洋風のこぢんまりとした造りの中に、日本の茶室が十分に意識されている。木造平屋建、屋根には赤瓦を乗せ、これを支える柱や梁には栗材が使われた。外壁には茶室に用いられる錆び壁を塗り、そこにタイルを組み合わせることで、独自の風趣を醸す。後年、洋風茶室とも称されたようだが、それがしっくりとくる外観を呈する。
大テーブルと椅子が置かれた談話室は、大きな窓からの光に満ちている。内装は、腰壁には萩の茎を使った簾を張り、壁は青貝交じりの砂塗りで仕上げる。船底天井には石膏が塗られ、目を凝らすと、梁の周縁にレリーフが施されている。モチーフは葡萄の実を食べる鳩やリス。多産や平和を象徴するのだろう。
ひときわ目を引くのは暖炉だ。周囲を黒紫の化粧タイルで埋め、上部には大きく「壽」と打ち出されたタイルが張られている。左右にはステンドグラス入りの洒落た灯り取り窓が。喜寿をことほぐ遊び心には、渋沢もさぞ満足したのではないか。
渋沢史料館の川上恵さんによれば、ここには内外問わず多くの賓客が訪れ、催し事を楽しんだり、昼食がふるまわれたり、晩香廬では、お茶を楽しみながら歓談する、そんなもてなし方だったという。どこか、田舎の下屋敷に客を招いて遊んだ大名たちの交友を思い起こさせ、渋沢の江戸への追慕を感じる。渋沢は終生、徳川慶喜を慕い続けた。
その慶喜の伝記を刊行するのが、渋沢積年の願いだった。そのために集められた膨大な史料の保管を目的とし、渋沢を慕う後進たちにより、80歳と子爵への昇格を祝って贈られたのが青淵文庫だった。

