2026年5月3日(日)

古希バックパッカー海外放浪記

2026年5月3日

(2025.11.7~12.25 49日間 総費用13万7000円〈航空券含む〉)

カオバンの高台に立つ中越戦争の戦没者慰霊碑

カオバンの高台に聳える中越戦争戦没者慰霊塔

 1979年1月、中国人民解放軍は56万の兵力を中越国境地帯に動員して圧力をかけ、2月に30万人の大軍が一挙に国境を突破して中越戦争が勃発した。正規軍の大半をカンボジアでの作戦に動員していたベトナムは、民兵や民間人を総動員してゲリラ戦を展開。ラオカイ、カオバンを制圧した人民解放軍はさらに南下してランソンも占領。しかし、予想外の激しい抵抗に遭い、開戦後3週間で人民解放軍は撤退した。

 中国側損害は戦死7000人、戦傷1万5000人と中国が発表している。人民解放軍の人海戦術に対しベトナム側がゲリラ戦で抗戦した結果である。ベトナム側の死傷者は正式発表されていないが、2万人以上という。3週間という短期間の交戦ではあるが、多大な死傷者数は激戦を物語っている。

 カオバンは、現在ではベトナム北部を巡る観光拠点となっている小さな地方都市であり、47年前に激戦があったことは想像できない。バン川を見下ろす高台に聳える中越戦争戦没者慰霊碑が唯一の証跡であろう。

奇岩と水郷の名所タムコックの中学校の用務員は中越戦争の英雄

御年67歳の中越戦争の英雄。峻険な山岳地帯での遭遇戦を経験した強者である

 11月27日。タムコックの町外れに地元出身兵士の戦没者共同墓地がある。碑文の説明によると対仏独立戦争、ベトナム戦争、中越戦争の戦死者は合計144人となっている。没年を見ると、1946年から1979年まで延々と続いている。改めて太平洋戦争後のベトナムの厳しい戦後史に思いを馳せた。

 戦没者共同墓地の対面の中学校に立ち寄って校長先生に話を聞いたら、校長の2人の叔父はベトナム戦争で亡くなり、共同墓地に葬られているとのことだった。お茶を出してくれた用務員のオジサンは、共同墓地には自分の戦友も眠っていると話し出した。用務員氏は中越戦争の直前に兵役に就き、2月に人民解放軍が越境を開始すると、北部国境地帯の最前線に送られたとのこと。

 用務員氏は67歳で既に年金暮らしであるが、小遣い稼ぎのため中学校でアルバイトをしている働き者だ。中越戦争当時は20歳。山岳地帯で重装備を担いで移動して大群で押し寄せる人民解放軍と戦ったという。人民解放軍を撃退したことが自分の誇りである、と言葉少なく静かに語った。真の英雄とはこの用務員氏のような寡黙で謙虚な市井の人なのであろう。

中国共産党の南シナ海の南沙・西沙諸島の領有権主張は秦漢時代に遡る

 12月16日。ホーチミンのホステルにて元IT技術者で失業中の中国人W氏と歓談。W氏は四川省の省都である成都出身。1979年の中越戦争後も中国・ベトナムの2国間系は領土問題では緊張が続いているが、同時に両国の経済関係は蜜月状態であるとW氏は指摘した。確かにベトナムにとり中国は輸出入ともに最大の貿易相手であり、中国は韓国、シンガポール、日本に次ぐベトナムへの直接投資国である。W氏はさらに中国企業はトランプ関税対策として、ベトナムを経由した対米“迂回輸出”を増やしていると指摘した。

 W氏によると、中国共産党の歴史認識ではベトナムは秦漢時代から唐代末まで千年の間、中国の支配下にあり南沙・西沙諸島は歴史的に中国固有の領土となるようだ。このような一方的我田引水歴史認識を背景に少しでもチャンスがあれば領土拡大を図るというのが1959年建国以来の共産党の基本行動原理であるとW氏は断言した。

 1979年の中越戦争以降も中国は再三にわたりベトナムと国境紛争を繰り返しているが、そのたびにベトナムは即座に反撃するので、緊張状態が“常態化”しているとW氏は指摘した。

中国との国境紛争の度に断固武力行使で対応するベトナム

 ネットで調べてみると1979年以降のベトナム・中国の国境紛争は主なものだけでも下記のようである:

  • 1984年中越国境紛争: 中越国境の山岳地帯のベトナム陣地を4月に人民解放軍が越境攻撃して3カ月半激戦を繰り広げた。公表されていないが戦死者は中国側1000人弱、ベトナム側4000人という規模だったらしい。
  • 1988年南沙諸島(スプラトリー諸島)海戦: 中国海軍がベトナム海軍を圧倒して中国はジョンソン岩礁など6つの岩礁を占拠して人工島を建設。残りの島嶼はベトナムが実効支配を維持。ベトナム側は戦死74人、艦船数隻を失っている。
  • 1989年中越国境事件: 大量の中国人労働者がベトナム領土に越境。労働者に偽装した中国兵による侵略をベトナム軍が実力で排除して収拾した。

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