先の見えない時代である。
政治も経済も国際情勢も落ち着かず、株式市場は一夜で景色を変え、健康もまた昨日までの前提をあっさり裏切る。かつてのように、定年まで一つの会社に勤め、退職後は静かに余生を送ればよいという時代ではなくなった。人生そのものが、常に相場付きで変動しているのである。
このような時代に、われわれはどのような生き方を選ぶべきなのか。
その問いに答えるために、日本中世の2人の巨人を思い出したい。鴨長明と西行法師である。鴨長明は『方丈記』において、無常の世を見つめ、小さな庵に籠り、持たぬ暮らしの中に安らぎを求めた。世の騒擾から距離を置き、災厄と欲望に満ちた都を離れ、縮小によって心の平安を得ようとしたのである。
一方、西行は、同じく無常を知りながら、なお花を追い、月を追い、旅を続けた。散る桜にこそ美を見出し、消えゆくものにこそ深く関わった。無常を避けたのではない。無常そのものを味わいにいったのである。
この二人は、単なる古典の登場人物ではない。彼らは、不確実な時代における二つの人生戦略の典型である。長明型は「引くことによって守る」人であり、西行型は「動くことによって生きる」人である。
私は明らかに西行タイプである。
山師とは、そもそもそういう生き物だ。相場が荒れれば荒れるほど現場に惹かれ、地図の空白を見ると歩いてみたくなり、人の行かぬ先にこそ真実があると信じる。庵に籠って世界を解釈するより、世界のざわめきの中に身を置いて、自分の五感で確かめたい。評論家よりも現場主義者、傍観者よりも参加者でありたいのである。
ガンに侵された時、人は長明になるか、西行になるか
この対比は、健康の問題になると一層鮮やかになる。たとえば、ガンに侵されたとき、人はどうするか。長明型は、病を無常の一つとして受け止める。
「人の命は露のようなものだ」と達観し、騒がず、焦らず、静かに身を処す。その姿勢には確かに強さがある。受け入れることで心を乱さず、病を自分の運命の一部として抱え込む。これは一つの立派な哲学である。
だが、西行型は少し違う。
病を受け入れないのではない。受け入れたうえで、なお味わうのである。たとえステージ4であろうと、「ならばこの局面をどう生き切るか」と考える。病気になったから人生を閉じるのではなく、病気になったからこそ濃く生きる。桜が散るから見に行かないのではない。散るからこそ見に行く。まさにそれが西行の感性である。
私自身、病を得て強く感じた。
人は死を意識して初めて、生の輪郭を知る。食事の味、朝の光、友人との会話、新幹線の窓から見える山並み、京都の春の匂い、温泉の湯気、祇園の夜の灯り。以前なら当然と思っていたものが、突然、奇跡のように思えてくる。病とは不幸であると同時に、感受性を研ぎ澄ます苛烈な教師でもある。
長明は、病と無常の前で「静けさ」を選ぶ。
西行は、病と無常の前で「感動」を選ぶ。
どちらが正しいかではない。どちらがより現代人に向いているか、である。
現代社会に向いているのは、どちらの型か
私は、総じて言えば現代人には西行型の方が向いていると考える。
なぜなら、現代社会は、じっとしていても情報が流れ込み、不安が増幅し、孤立が深まる構造になっているからである。家に閉じこもれば安らぐのではなく、むしろ余計な情報に囲まれて消耗しがちだ。しかも高齢社会において最大の敵は、病気そのものだけではない。孤独と無関心である。
長明型の隠遁は、美しい思想ではあるが、現代にそのまま移植すると、しばしば「孤立」と紙一重になる。
一人で静かに考える力は大切である。しかしそれが過ぎれば、人は自分の頭の中だけで堂々巡りを始める。誰とも会わず、外に出ず、刺激を避ける生活は、一見安全に見えて、実は心身を静かに摩耗させる危険がある。
それに対して西行型は、世界と接触し続ける。
旅に出る。人と会う。花を見る。季節を味わう。温泉を訪ねる。市場に参加する。痛みを知りながらも、なお生の現場から退かない。これは単なる享楽ではない。自分の生命力を世界との接触によって維持する方法なのである。
老人こそ、他人と接触した方がよい。
資産にも健康にも人間関係にも、過度にかかわらず、それでも人との縁を保ち続ける老人の方が、孤独に閉じる老人よりはるかに現代生活にフィットしている。人は、閉じて長生きするより、開いて生き生き老いる方がいい。
