資産運用における「長明型」と「西行型」
この違いは、株式投資の世界にもそのまま当てはまる。
長明型投資家は、基本的に守りを重んじる。現金比率を高め、危険な局面から距離を置き、相場を外から眺める。これは評論家的な態度である。理屈はよく分かるし、分析も深い。しかし、往々にして参加しない。安全ではあるが、相場の熱や匂いを失いやすい。
一方、西行型投資家は、リスクを熟知したうえで市場に身を置く。
ただし、無謀に突っ込むのではない。守りながら攻めるのである。これは年齢を重ねて初めて身につく投資観かもしれない。若い頃は攻めるか逃げるかの2択になりがちだが、本当の投資はその中間にある。ポジションを調整し、流れを読み、危険を察知しながらも、相場から完全には降りない。株式投資を単なる金儲けではなく、頭の体操、時代との対話として楽しむのである。
山師とは、西行型の投資家である。
花が散ることを知りながら花見に行くように、下げ相場の危険を知りながらも市場から学ぶ。鉱山も相場も、人間も国家も、現場に近づかなければ本質は見えない。長明型は評論家として優れているかもしれないが、西行型は参加者として世界を知る。
むろん、長明型にも長所はある。
熱狂から距離を置ける。群集心理に呑まれにくい。退く勇気がある。
だが、現代のように変化が激しい時代には、退くだけでは足りない。時に踏み込み、時に退き、また時に旅に出る柔軟さが必要だ。その意味で、西行型の方が現代的である。
宗教的感性の違い――静と動の修行
宗教に喩えるなら、長明型は坐禅を好む曹洞宗に近い。
ただ静かに坐り、あるがままを見つめ、余計な働きを削ぎ落としていく。そこには深い静寂と厳しさがある。自分の内面を整え、世界の騒音を離れる力がある。
これに対して西行型は、公案を好む臨済宗に近い。
外界との緊張、問答、打撃、矛盾の中で目を覚ます。静けさの中で悟るのではなく、動の中で覚醒する。旅もまた公案であり、病もまた公案であり、市場もまた公案である。答えは庵の中にあるのではなく、世界との摩擦の中から立ち上がってくる。
どちらも仏教であり、どちらも救いの道である。
だが、情報過剰で、変化が激しく、孤独が深まる現代では、ただ坐るだけでは救われぬ人が多い。動きながら整える、接触しながら深める、遊びながら悟る――そんな西行的な修行の方が、現代人には呼吸が合うように思う。
デュアルライフという現代の西行
長明は一つの庵にとどまった。西行は場所を変え、景色を変え、季節を変えながら生きた。この違いは、現代では「隠遁」と「デュアルライフ」の違いとして現れる。ひとつの場所に閉じる生き方は、整然としているが、時に硬直する。
それに対して二拠点生活や旅を織り込んだ生活は、多少面倒でも、精神に風を通す。京都と東京を行き来する。各地の温泉を訪ねる。桜の時期には山へ行き、秋には紅葉を追う。移動は疲れるが、それ以上に人を若返らせる。景色が変わると、思考もまた新しくなるからだ。
年を取ってからの旅は、若い頃の旅とは意味が違う。若い頃は未来を探しに行くが、老いてからは今を確かめに行く。
温泉一つ、料理一皿、宿の窓から見える朝の山並み一つが、生きている実感を取り戻させてくれる。これもまた、西行の系譜である。
