これはイノベーションだけに限らない。私がオハイオ州立大学の理事長を務めていた時はイスラエルとパレスチナの戦争が始まった時と重なる。当時、米国各地の大学にて、「反ユダヤ主義」のデモが瞬く間に拡がった。米下院の公聴会でハーバード大学のクローディン・ゲイ学長とペンシルバニア大学のリズ・マギル学長は、「大学内でのデモ行為が大学の行動規範に違反するか」という質問に対して明確な回答をせず、大学運営に強い影響力を持つユダヤ人社会から猛烈な批判を浴び、辞任に追い込まれた。
オハイオ州立大学でも「合衆国憲法で保障された言論の自由」に対し、どのようなスタンスを取るべきか、理事会で何度も話し合われた。理事会や大学にはユダヤ人やパレスチナ人もいる。このように理事会が異なる意見で割れると予想がつく時、私はどうコンセンサスを得るか事前に何度もシミュレーションしていた。
日本から来た移民である私は、複雑な多民族国家の米国で、どのように議論を進めるとコンセンサスを得られるのかいつも考えさせられる状況にあった。そのプロセスを経て、私なりのスタイルが形成されてきた。例えば、会議の前に「『誰が正しいかではなく、何が正しいのか』という視点を失わず議論してほしい」と必ず要請するのも私の流儀だ。そうすることで主観的になりがちな議論をより客観的な方向に持っていきやすくなる。
さらに言えば、一貫性と透明性を持った発信をすることが大切である。風見鶏のようにその場限りの忖度をすれば敵は作りづらいが、一貫性を持つと必ず反対の立場を持つ人たちとぶつかってしまう。その時に「誰が正しいかではなく、何が正しいか」という視点が重要な鍵となることは言うまでもない。
人間だけが兼ね備える力
未来は「対話」から生まれる
悲しいことに、世界を見渡すと各地で戦争が今も続いている。米国も深く関わる戦争もたくさんの犠牲者を出し、まだ終わる様子もない。これらも国家を率いる指導者の資質に深く起因していると言わざるを得ない。人間が他の動物と違って兼ね備えている、「話す言語が違っても対話できる力」をもっと大事にすべきだ。未来はまさに深い対話から生まれるのではないか。
前回、紹介した千年未来塾が開催される「VUTAI」で、京都観世会の能楽師による能「翁」を鑑賞した。翁を舞う能楽師と目が合った時、深い静かな湖のような眼差しで眼を射抜かれた感覚を覚えた。まるで悠久の時を超えてきた矢が私の目を通り抜けて心の奥底まで覗かれたような衝撃を受けた。まさに能は舞うものと鑑賞するものの無言の「対話」だ。そう、対話は無言でもあり得る。対面で言葉は発さずとも、真意は空間の「行間」に秘められている。
SNSなどの影響で、現代におけるコミュニケーションの主な手段は「目と目を合わせない」スマートフォンになった。これではもともと人類が持っていた意思疎通の能力が退化してしまう。もっと直に相手と対峙し、目を見て様々なことを語り合おうではないか。「対話の力」を再考する機会になればと思う。
