もちろん、だからといって管理責任が消えるわけではない。しかし、責任を個人に負わせ、訓練や点検を上乗せするだけの対症療法では、同じことがいずれまた別の学校で起きる。必要なのは、教員が本来の職務に専念でき、施設の安全を専門に担う仕組みを、制度として学校に組み込むことである。
教員の「私物」が意味するもの
ここで、教員の私物について考えたい。筆者の記憶では、市役所の職員には公務用のパソコンが配られていたのに、教員には校務用PCが支給されず、皆が私物のPCで仕事をしていた時代が長く続いた。その頃、私物PCにWinnyを入れていた教員が市の教育委員会から削除を命じられ、拒否して話題になったことがある。
生徒の個人情報を扱う以上、情報流出の恐れのあるソフトを削除するのは当然だが同時に、なぜ同じ市の職員でありながら、教員だけが私物PCで仕事をするのが当たり前だったのか、という疑問も残る。
そこには、教員は可能な範囲で私物を提供するのが当たり前、という学校教育行政の長年の慣習があったと考える。筆者自身がそうだった。20万円も30万円もするパソコンを自費で買って仕事に使い、合唱祭の練習のためにラジカセ(懐かしい言葉だ)やスピーカーを買い込む。
私物を仕事に使うのは日常で、むしろそうした教員は、生徒からも保護者からも献身的だと褒められこそすれ、問題にされることはなかった。なぜなら、そうした献身が、教育を豊かにし、創造性を培ってきたからだ。
日本の学校では、「子ども達のため」という言葉を免罪符に、公私の境が曖昧になってきた。それは事実である。その曖昧さが今回の火災を招いた一因であるなら、正されねばならない。
しかし、教員の善意と創造性の上に日本の教育が築かれてきたこともまた、まぎれもない事実だ。制度で締めつけ、時間とお金で割り切るだけの教師ばかりになった時、失われるのは教育の豊かさそのものではないか。
制度が人を守る構造になっていない限り、現場の献身は、いつか限界を超える。今回の火災は、その限界の一端が、最も痛ましい形で露呈したものでもあると受け止めている。献身に頼り切る構造は、改めねばならない。
