2024年4月20日(土)

経済の常識 VS 政策の非常識

2014年12月10日

 石造りの壮麗な建物や豪華な調度品に囲まれたエリートと何も持っていない人々がいる。ミラノは楽しいが、何もかもが高い。短い滞在で結構散財してしまったが、これを恒常的に、かつ家族で楽しめる人々と、そうはできない人々に社会が分断されているのを感じる。フランスで(おそらく他のヨーロッパでも)、それほど話題にならなかったのは、そんなことは当たり前で新味がないと感じられたからなのかもしれない。

 ただし、ピケティの主張は、ノーベル経済学賞を受賞したサイモン・クズネッツの「経済発展の初期には所得不平等度は拡大するが、やがて平等化する」という、よく知られた議論とは反対である。ピケティは、それは戦後から1980年代まで続いた偶然にすぎないとする。図はCapital in the Twenty-First Centuryから引用したものだが、米国の所得上位10%層の全所得に占める比率は戦前の状況に戻っている。ピケティは、平等化が進んだ時代は戦後から80年代までに限られているという。

 ただし、資本が蓄積されていくらでも大きくなり、かつその収益率が低下しないという主張には疑義がある。資本が大きくなり、その収益率が下がらないなら、GDPに占める資本の取り分(収益率×資本)はいくらでも上昇する。しかし、取り分の比率である以上、100%が最大値である。労働者の取り分は必要だから、どこかに限界があるはずだ。すると、どこかで収益率が低下しなければならない。実際に、多くの経済分析では、資本の取り分を一定としている。資本の取り分が一定であれば、資本が蓄積されていけば、収益率は、いつかは低下しなければならない。

 さて、ピケティの議論をどのように考えたらよいのだろうか。私は、格差の原因を限定しすぎているのではないかと思う。上位の人々の所得の全所得に占める比率ばかりではなく、下位の人々の所得、あるいは、中間層の所得がどうなっているかが、より大きな問題ではないだろうか。それを考えるためには、ピケティ教授がまったく考慮していないというわけではないが、格差を生み出す様々な要因についても考える必要がある。


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