野球のピッチャーをリクエストされると、南海ホークスの試合に連れて行ってもらう。ピッチャーの手足の動きをじっと見て、それを自分の頭で動かしながら、道路の上に活写する。横綱の土俵入りは、相撲の巡業を見に行って描き上げた。
木村が生まれたのは、大阪の泉大津。岸和田と堺のちょうど真ん中あたり。さほど大きくない町では、路上に上手に絵を描く子の存在は誰もが知っている地域の有名人。
「ほめられたから描いてたんや。ほめられることが好きやってん。人に喜んでもらうのが一番好きや。そのためには、カッコよく、面白いものを描かないかん。それがずっと僕のテーマになったんやね。あの頃のほめられた快感が、今でもフラッシュバックすることがある。原点はそこやね」
ロックに揺さぶられて
木村と絵の関係は、驚きや称賛や喜びという心地よさに包まれてスタートしたわけだ。小学校では先生が絵のコンクールに出してくれると、あらゆる賞によってほめられた。しかし、中学校、高校になって木村の夢中の向きが少し変わった。気性の荒い土地柄でもあり、絵がうまいよりもケンカが強いほうが喝采を浴びるということに気づいてケンカに夢中に。その結果、やんちゃ三昧、堺の高校にいられなくなり、二年の終わりに姉の嫁ぎ先の京都の高校に転校。ケンカの季節はおわったものの、卒業後の進路が決まらない。
「ケンカばっかりで、勉強なんかしてないし、大学いうてもなあ……そんな時に、子どもの頃に絵を描いて、みんなにほめられ、大事にしてもらったこと思い出して、絵なら負けへんのと違うかなって思った。で、京都市立美術大学(現京都市立芸術大学)受けてみようと思ったんやけどな。美術に縁がなかったから、日本画は横山大観、変わった絵はピカソ、自分でも描けそうなのはゴッホ。そんな知識しかなかったんや」
それで当時二十倍の競争率の美大を受けようとしたのか……。しかし、そんなことは木村には関係なく、忘れていた絵を描く快感に向かってまっしぐら。もちろん画家になろうという気などさらさらない。募集要項を見て図案科というのを発見、これ面白そう、ここにしとこうかと願書を提出。それで二十倍の狭き門を突破してしまったというのである。
「絵を描くテストがあってね、テーマがまさかの『炭鉱』やってん。これまでの出題傾向調べた連中は、えーって驚くけど、何も準備してない僕は驚かん。で、5人の炭鉱労働者の顔を赤と黒と青で描いたんや」