当時、京都市美大のカリスマ教授だったリックス・上野・リチが「自分が求めていた絵だ」と木村の絵を絶賛。かくして奇跡の現役合格となったのだという。美大生になった木村は、けっこう真面目に学生生活を送っていたようで、意外にも卒業後は講師として母校に残っている。目の前の木村と、大学講師がどうもうまくつながらない。
「公立の研究員や講師の席はいつ空くかわからん、そんな機会を逃しちゃいかんいうから、そんなもんかなと大学に残ったんやけどね」
ここで、美大講師として絵と関わっていれば、絵という分野では今と地続きになったのだが、またもや木村の人生から絵が消えてしまうのである。今度はケンカではなく、新しい時代を切り裂くように現れたうねりが木村を夢中にさせた。時代は、1960年代の前半から後半に入った頃。アメリカでウォーホルやリキテンスタインなどによってポップアートが誕生し、ロックが若い世代の感覚を揺さぶり始めていた。
「僕も若かったし、ポップアートやロックに惹かれるんや。でも、学校では教えることもできない。学問ってのは過去に学ぶものなんやね。新しいものや自分のわからんものはゲテモノみたいに扱う。僕は一番若い先生やったから、新しい波に興味をもっている学生と一緒に学校から外へ出ていって、当時はパフォーマンスいう言葉がなくてハプニング言うたけど、水を薄いピンクに染めてホースでまき散らし、ピンクレインと言ったり、バカなことをやってたんや」
何か面白いことを仕掛けては、人をあっと言わせる。木村が夢中になったのは、外でイベントを繰り広げ、みんなを楽しませること。大学講師は四年で辞め、広告などの制作会社「RR」を立ち上げると、学生たちがたまり場のように集まり、そんなエネルギーを結集するように、1969年、日本初のロックフェスティバルといわれる「TOO MUCH」を成功させた。これでロックプロデューサーとして、その筋では名前がとどろくことになり、日本でロックイベントを仕掛けられるのは木村英輝と海外にまで知られる存在になっていた。
「それまで音楽と祭りを合体させたのは盆踊りだけやった。祭りとロックを合体させたら面白いと思った」