バラカン やはり明治維新以降の日本がもう西欧の一員になろうと一生懸命になったことがきっかけなんですか? 要するに自分はアジアの国なんだけど、多くの面でヨーロッパに追いつき近代国家になろうとした、というような。
青木 列強と同じような力を持ちたいということです。ですから、教育制度から軍事まで、当時の列強大国に倣っている。
バラカン だから、植民地主義に走ったというのも、ある意味ではヨーロッパのようになろうという流れでしょう。ヨーロッパがなぜ強いかといったら、植民地を持っているから強いという要素もある。ヨーロッパのように強くなろうと思ったら、植民地を持たなきゃいけない。これは極めて合理的なプロセスかもしれません。ただ、そのやり方が急すぎて失敗したというのは、もちろん歴史を見れば誰にでも分かる話なんです。
青木 当時の日本人が持っていた感覚というのは、明治から大正にかけての、片一方でヨーロッパやアメリカがモデルとしてあるわけですけど、同時に中国大陸まで列強の植民地化が進んできているし、片一方では、ロマノフ王朝のロシアには、南進というのがありましたからね。そういう中でまだまだ未熟な状態の中から近代国家をつくらなくてはいけないというのは、想像以上に大変だったと思うんです。今ではいろいろな批判も出てくるんですが、当時としては列強攻勢の中で何とか国の独立を保って、かつ、西欧列強みたいに力をつけなければ負けてしまうという強い思いがありました。
日本文化の特徴は「混成」
―― 日本文化の歴史をふりかえると、中国の文化や南蛮文化をうまく受け入れて、そこを日本流にアレンジして、日本文化を変容させてきています。でも、明治時代以降というのは、欧米のシステムや文化をまるまる受け入れてしまっているような感じがします。それまでのスタイルであった、いったん受容して変容させるやりかたと、変わってしまったと考えられるでしょうか?
青木 いや、そうじゃないと思う。僕は日本文化を「混成文化」っていうふうに呼んでいるんですけど、日本はもともと土地に根付く神道文化があり、天皇制の基盤にもなっています。そして、アジア大陸から儒教、道教、それから律令体制、仏教の影響も大きく受けてきた。その後明治になって、今度は西欧やアメリカの影響を受けた。だけど、だからと言って神道文化がなくなるかといったら、なくなっていない。これはずっと現代でも天皇制を含めて存続している。今でも全国どこを歩いても、お寺もあれば鳥居もあるし、キリスト教の教会やイスラム教のモスクまであるでしょう。日本人は取捨選択が結構うまい。これを「混成文化」と呼んできました。中国やインドの影響を受けていても、中国やインドになったわけではないし、そういう欲望もなかった。いいものはきちんと受け入れるけれども、自分では受容できないなと思うものに対しては、積極的に受け入れない。
徳川時代があったから、逆にその選択がうまくいっていたのかなと思います。16世紀以来、ポルトガルが来て、オランダが来て、イギリス、フランスが来て、日本はあれこれ取捨選択する暇もなく、時間もなく、西欧のいろいろなものを受容せざるを得なかった。
バラカン でも面白いのは、僕はその後の鎖国時代だと思うんです。長崎の出島みたいな、オランダ人や中国人が出入りするところもあったけど、ほとんど海外からの影響が途絶えたその間が、いろいろな庶民文化がジュワーッと醸し出された時代だった。
よく音楽の世界でも、下手にいろいろな人の影響を受けすぎると、自分のアイデアがわかないということが言われます。もちろん、誰でも最初は誰かの影響を受けながら自分の個性をはぐくんでいくものですが、その辺のバランスがうまくいったのではないでしょうか。