次第に頭角を現し、5年目に初勝利を飾る。翌年に膝を故障するも、1999年には30試合に登板し防御率2・20の好成績を残す。しかし、プロ10年目を迎えた2000年、2軍にいた小林のもとへ、ついに通告が来る。
「試合前だったかな、後だったかな。直接、来季は契約しない、と」。元より覚悟は毎年していた。すぐに現役続行の意思を伝え、自らのツテをたどり、千葉ロッテマリーンズの入団テストを受けて合格。「高校時代を過ごした千葉で、そして、また野球ができるという喜び。ドラフト指名のときより、うれしかった」。
新天地では見事開幕1軍入りを果たすも、結局わずか6試合の登板に終わる。そして10月、家にいる小林の電話が鳴った。
「明日、寮で話をしたい」
目の前で話をしているのが誰なのかも定かではない。来季の契約をしないことを告げられると、トライアウトに向け始動。現役続行へ向けて練習を続けたが、この期間に肩を故障。歯を磨くこともできないほど悪化した。
1週間まったくボールを投げず、ぶっつけ本番でトライアウトに臨んだ。登板に備えたキャッチボールの1球目、ボールは無情にも相手に届かなかった。まったく上がらない肩を見つめ、小林はここで野球人生にピリオドを打った。
29歳。赤坂で料亭を営む父親の後を継ぐことを決め、修業に入る。皿洗いなどをこなしながら、2年半ほどが経過。修業の身ではあるが、そこはやはり父と子。次第に緊張感がなくなっていく関係性に危機感を覚えていた。
「このままではいけない、なにか全く違うことをやろうと思った」
カフェをやりたいという母親の力になれば良いと、ケーキ作りの修業の道を選ぶ。数多あるバイト求人の中から、タルトとケーキの名門・キルフェボンでアルバイトする道を選ぶ。
入店初日から体験したことのない激務をこなすことになる。始発から終電間際まで、20歳そこそこの女性アルバイトに怒られながら、生地を作る工程をひたすら繰り返す日々。
男の世界で生きてきた小林にとって、女性だらけの世界で生きていくことは計り知れないストレスだったであろう。その業務の過酷さから、1日でやめていくスタッフを1年で100人以上見てきた。しかし、小林の心は全く折れなかった。「ここに入ると決めたのは誰? むしろ、はじめから経験を積めるこの場がありがたかった」。
生地を作る工程だけを1年半。オーブンで生地を焼く工程を2年。ムースを作る工程を約半年。その後も含めて計5年弱の間、ひたすら修業を積み重ねた。その間の時給は約850円。「ケーキが作れるようになりたい。その一心だけだった」。