現地で初めて感じた気持ちは、5年近くたった今も変わっていない。「僕はあの日、現地にいなかったので、津波が30m以上あったとか、実際その場に立ってみても想像できないし、その人たちの本当の気持ちを心底理解することはやっぱりできません。でも、その人たちに寄り添って、サポートすることはできる。たまたま被災地にはいなかった僕がやれること、やるべきことがあるんじゃないか。前に進もうとしている人達のために、何かをしたいと思ったし、逆に元気をもらいました」
現地では、民家の清掃作業や自衛隊やボランティアが拾ってきた写真の修復作業などを行った。「一歩一歩進ませることしかできないけど、その一歩を進ませられる人が多いほど復興するのが早いと思うし、今起きてしまった現実をちゃんと心に刻むことが大切な気がする」と感じたShogoさんは、仲間に呼びかけてバスで宮城へ行くようになる。東京から石巻まで車で6時間ほど。24時に渋谷を出発。仮眠した後、8時半から開くボランティアセンターへ行く。16時までボランティアに励み、そのまま帰って22時には東京に戻ることができる。「少しの気持ちと週末一回の飲み会を削れば行けちゃいます」というShogoさんの呼びかけに、多くの仲間が集まった。
水産加工場の復興に立ち会う
Shogoさんが石巻市にあるヤマユ佐勇水産の佐藤さんに会ったのは、ボランティア5回目となる7月半ばのことだった。津波に襲われ、工場を失い、家も流され避難所生活をしていた佐藤さん夫婦は、その地域で唯一、同じ場所で工場を再開させようとしていた。震災後4ヶ月手つかずのままの泥まみれの工場と「想像しきれない程の強い覚悟を感じた」夫婦を前に、Shogoさんは「何がなんでもサポートしようと思った」という。「お父さんとお母さんが一緒に作業をしてて。全然喋らなかったんですね。だから僕らも余計なことを言って傷つけたくなかったし、黙々と作業を進めてたんです」
泥をはけ、カゴを洗い、壁や天井にこびりついた汚れを落とす。午後になり作業も進み、泥まみれだった場所からようやくコンクリートの床が見えた。言葉数少ないお父さんが嬉しそうにコンクリートをバンバンと踏んだ。少しずつ話を聞きながら、交流していたShogoさんだが、「結構作業も進んだし、何か笑わしたいな、って思ったんですよね。若いスタッフだったんで、水を掛け合ったんですよ。そしたらお父さんとお母さんが笑ったんです。その時に思ったんです。ただ、単純に進めたらいいわけじゃないんだなって。悪ノリとかじゃなくて、2人に笑ってもらうために、明るくなれるような関わり方があるんじゃないかな、って。
僕らが笑ってたり、ふざけて笑ってもらったり。そうすると明らかに変わったんです。距離が縮まったというか。お二人には息子さんが2人と当時中学二年生の娘さんがいて。だいぶショックを受けていて、彼女にも明るくなってほしいなって、寄り添いながら何ができるんだろうって。そこまで意識したことはありませんでした。月に一回行ってるだけの僕らだけでは何もできない。現地の人が元気にならないと、心が復興しないとって思ったんです」
お母さんこと佐藤央子さんは、その時を振り返ってこう語る。「Shogo君は私たちが一番どん底にいる時に来てくれた。片付けからできるかどうか、という時に来てくれたんです。帰る時にも、カゴを持ち上げて、『また来週来るからねー』って。初めて笑顔になれたんです。すごい喪失感があったまま4ヶ月が過ぎていて。でもその時、初めてやってみようかな、って気持ちになれたんです」
その日から2ヶ月余り。強行スケジュールでボランティアに来ていたShogoさんが帰りの準備をしていると、佐藤さん夫妻が『ちょっと来て』と声をかけた。Shogoさんが見たのはキレイになった工場だった。大小並ぶ工場のうち、まず小工場が再オープンすることになったのだ。「お母さんが涙を浮かべて笑顔でありがとうと言ってくれて、お父さんも笑顔で。復興するってこういうことなんだって、初めて感じた瞬間でした」