「言葉遊びなんかやってたよねえ。アサリ売りはシジミやハマグリも一緒に売っていた。アッサァリ~ィ シィンジミィ~って聞こえるもんだから、子どもらが『あっさり 死んじめぇ~』って遊んで大人によく怒られたもんだ。暮れになると埼玉の草加とか幸手(さって)からくわい売りのおじいちゃんが来ましてねえ。その声を聞くと正月が近いんだなって待ち遠しい気分になったもんですよ」
そんな貧しいながらもイキイキ暮らしていた町から、物売りの売り声も途絶え、人々が気配を殺して生きるしかなかった戦争の時代へ。中学校に入った年に終戦を迎えている。
「3月10日の空襲の時は焼けなかったのに、その数日後にまた空襲があって焼け出されちゃってねえ。戦後も学校行かないで、千住大橋のたもとから出ていた焼き玉エンジンのポンポン蒸気船に乗って、浅草に毎日行って遊んでたの。大道芸見たり、香具師(やし)やテキ屋の口上聞いたり、一日中過ごすのが面白くてねえ。大人に怒られたってやめられないっつうの。ものの始まりが一なら国の始まりは大和の国、なんて口上が聞こえてくる。最初に聞いたのは映画の寅さんじゃないよ。啖呵売(たんかばい)とか泣き売(ばい)とか、いろんな売り方があってね」
親にバレても、大人に怒られても13歳の宮田の浅草通いはやめられず、やがて大人は何も言わなくなった。人であふれる六区の映画館や芝居小屋にはお金がなくて入れなくても、路上こそがまさに宮田にとってはエキサイティングな演芸ホールだったのだ。
芸人になるつもりは全くなかったと宮田は言う。しかし、町中がエンターテインメントのような浅草に毎日身を置いていれば、自然にそっち方面の縁が生まれてくる。15、6歳から見よう見まねで始めたドラムやギターが縁で、芝居小屋に来ていた旅回り一座から声をかけられた。それが芸人としての道を生きるきっかけになった。
「当時、ハッピーボーイズというグループがあって、その一人の地下鉄男(ちかてつお)という人から『一緒に漫才やらない?』と声かけられて、『できないよ』『大丈夫だよ』って感じで始めることになったわけよ」
やがて誘った地下鉄男が去って、誘われた宮田のほうが残るという展開に。宮田洋容(ようよう)に弟子入りして本格的に宮田陽司・章司として漫才で生きるようになり、そこからテレビや映画からも声がかかり、結局ずっとこの世界で生きることになったという。面白いこと、心が動くことに素直に身を任せているうちに、その流れの中から先に導く出会いが生まれていく。目標を掲げ、懸命に何かになろうとするのではなく、その時その時を自分に正直に生きているといつの間にか道ができていて、後になって振り返るとその起点に気づくという塩梅(あんばい)だ。売り声の芸との出会いもその流れから生じたもので、宵越しの金を持たずに今の今をせいいっぱい楽しく生きようとした江戸っ子そのものが目の前に着物を着て座っているような錯覚を覚える。