法科から美学科に転部した渡辺君は、古代ギリシャで完成した古典演劇のギリシャ悲劇・詩劇にはまり、役者まで演じたことを熱く語りました。ある同窓生の話では、渡辺君は大江健三郎さんとも親しかったそうです。下君、亀井君と違い、渡辺君はセレブな感じでした。私は、大学4年間、テニスと官庁の書類の整理、家庭教師など、10種類ほどのアルバイトをしたことを話しました。
特に、授業の前後の朝と夕方に、成城学園の大会社社長宅の「子犬の散歩アルバイト」をしたことに、セレブな渡辺君は目を丸くしてびっくりしていました。私は昼食はいつも大学食堂で食べるコマ切れ肉がほんの少し入った焼きそばだったのに、子犬はシモフリ肉を食べていたのです。世の不公平さを感じ、3週間の予定を2週間でキャンセルさせてもらったことなどを話しました。
渡辺君はやり手の芸術家兼ビジネスマンでした。彼はちょうど、レマンという広告会社を設立してすぐのころでしたから、大変な頃だったと思います。その後、「各業種の中から1社ずつ選び出し、その大企業の広告を請け負う」という、日本初の独創的なアイデアを実行するようになりました。
しばらくして、なんと信越化学の社内で彼の姿をみかけ、私はとてもびっくりしました。今から40年前ですから、信越化学より立派な化学会社はたくさんありました。それなのに渡辺君は、信越化学こそが成長する会社であると考え、自分の力で、信越化学の広告の仕事を受注したのです。
渡辺君と私は、池袋の服部珈琲舎で、小さくて大きな約束をしました。それは、「信越化学の社内ではお互い知らんぷりをする。会うのは社外に限る」というものです。
私はちょうどそのころ、経理係長でした。信越化学の重要なキャッチコピー(「不可能を可能にする信越化学」など)を創った渡辺君は、信越化学全体の広告を請け負っていますから、彼が会う人は部長だったり役員だったり、私から見れば雲の上の人たちです。
私は、自分をかわいがりたいから、社内で渡辺君と小学校からの知り合いだとはとても言えませんでした。小さい頃から彼の優秀さや素晴らしいセンスに後れをなしていた私は、下っ端の自分と、かなり上の人たちとつきあう渡辺君の差が知れわたるのを避けたかったのです。
当時の渡辺君は、芸術家であると同時に、従業員を何十人も抱える経営者としての責任感からでしょうか、利益追求、いやむしろ、銭(儲け)に執着する、と言った方がよい人となっていきました。
渡辺君とは、毎年2、3回社外で会うが、彼の仕事の話は一切しない関係が、私が会社を辞める1999年の直前までずっと続きました。私は43才の時、経理部長になり、やっと渡辺君と社内で話してもいいような状況になったのですが、それでもあの約束をお互い守り続けました。それは、予算を預かる経理部長と、広告を請け負っている会社の社長が友だちであることが知れ渡れば、そういう関係で仕事を得たのではないかと思う人がでてきて、彼の仕事上、良くないからです。
結局、私と渡辺君の約束は、二人どちらにとっても、いいように働いてくれました。
掘り下げて、寄り道する
私は、やはりずっと、東畑精一先生のおっしゃった、「体験で一つのことを掘り下げる」を実践してきて、本当によかったと思います。先生のあのお言葉があったから、渡辺君の仕事にも下手に首を突っ込まず、自分をかわいがることができました。