2024年4月29日(月)

ペコペコ・サラリーマン哲学

2009年11月11日

 クラス40人の9割がたの友は、スイスイと和訳していきますが、英語を専門にしようとしているはずの私は、訳本を買ってそれと見比べても難しくて構文すらわかりません。ついに半年後には英語に挫折し、以後はテニスとアルバイトに明け暮れる2年間を過ごしました。

 その私を受け入れてくれたのが農学部農業経済学科で、そこですばらしい先生と友たちに出会いました。中でも一度だけですが、農業経済学とシュンペーター経済学・イノベーションの権威の東畑精一先生の講義に潜り込んだのが懐かしいです(あの下君は、それより前の2年間、東畑先生の講義に潜り込み続けていました)。

「無知の知」を教えてくれた東畑精一先生

 私が潜り込んだのは東畑先生の定年・最終記念講義でした。講義のあと、農業経済学科の喫茶室で「広すぎる知識を持ってそれをひけらかすと、真の友ができないものだよ」と教えていただきました。

 東畑先生はご自分の学生時代の一コマを話してくださいました。「私は半年ほど、みかん箱で送った本だけと、ひなびた温泉で過ごしたことがある。ラジオ・新聞ナシの毎日だった。半年後、浦島太郎になって、下界に降りてきた“何も知らない私”に、友人たちはとても親切にいろいろ教えてくれた。“ああ、知らないことは素晴らしい”とつくづく思った。体験なしに頭だけの広い知識で人に接すると、真の友人は得られない、と思う。体験で一つのことを掘り下げる気持ちで生きていくことを諸君に勧める」。

 このお言葉が、のちに私が「生涯一(いち)経理・財務マン」の気持ちで過ごしてきている小さなエネルギーの源になっています。東畑先生に多謝です。

 このコラムの第6回「出たとこ勝負」で書きましたが、信越化学に就職すると、まず群馬県安中市の磯部工場の経理・財務、半導体シリコンの原価計算係をしました。その後、本社肥料部でデリバリー係をしました。半年後、社員7人の建設会社へ出向し、割りぐり石の上に鉄骨を組み立てる1坪のプレハブ小屋をトラックに乗って売る仕事を3年間ほどしました。いつも、夜、田中角栄元総理が二級建築士の資格をとるために通った王子の中央工学校のネオンサインを見て、会社へ帰っていました。その後、プラスチック製造会社へ出向し、プラスチックのバケツ・雨樋・波板・タイル・タンブラーなどを金物店・農協・デパート・ホテル・駐留米軍などへ売って回りました。

 ある日、代金回収の交渉の帰りに、いつものように京浜東北線から窓の外を見ていると、中央工学校の下の方に王子経理専門学校というネオンサインが見えました。それをきっかけに入学し、そこで立教大学卒の40才の小尾毅さんという、小企業(三井物産関係の硫黄会社)の経理課長さんから所得税と簿記の初歩の教えを受けました。

 しばらくして、小尾さんは勤務先が倒産し、失業保険をもらっておられました。そして、一年後に大東文化大学の非常勤講師になられました。その15年後に教授になられた小尾さんには約20年間もご指導いただいたが、まことに残念ですが昭和59年に亡くなられました。

 私は30才で、本社の経理部に配属され、約30年間経理・財務の仕事をしましたが、小尾さんから「私もいつか書くから、金児君も本を書きなさい」と言われたことが、47才で単著の本を上梓するきっかけになりました。

 私はたたき上げの実務経理・財務マンで微力ですが、19、20才のとき逝った両親に誉めてもらいたい一心で、73才の今ここまで来たような気がします。

渡辺君との「小さくて大きな約束」

 35才の時、偶然池袋駅で渡辺 蔚(わたなべ・しげる)君に出会いました。それぞれの大学時代のことを話しました。下君は図書館で思索にふけり、亀井君は七徳堂という三四郎池そばの講堂で護身術・合気道に熱中していたことを、渡辺君が私に話してくれました。


新着記事

»もっと見る