Wedge REPORT

2016年2月19日

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 夫が原稿と向き合っていたあの時期、原稿を書く以外でどんな状態だったのかを知っていただきたく少し書いてみようと思います。

  1月4日に入院が決まって、救急で診察を受けた後で病室に入りましたが、夜は特に相当苦しかったようで、痛い、辛いと繰り返していました。腹水を抜いてろ過し戻す処置が行われると少し楽になりましたが、その後、少しずつ痛みがまた出始めました。

  8日になり、免疫療法のクリニックの返事が3カ月の治療が必要だと言うことがわかり望みが絶たれて、さすがにショックを受けたと言いました。その夜に原稿チームの皆さんに電話をし、早めに原稿を仕上げることを決断したようでした。ただ、まだ生きる希望を持ち、他の免疫療法のクリニックを調べてほしいとも言われました。

  9日午後から10日にかけて、徐々に左手も麻痺が始まり、腹水が抜けず痛みも増し、気持ちの余裕もなくなってきているようでした。PCや電話が使えなくなってきて、こぶしでベッドをたたきながら「悔しい」と機能がどんどん衰えていくことへの悔しさを表したり、「だれかと首から下を交換できたらいいのになあ」と言ってみたり、私や看護師さんにも不平不満を言うようになったり。仕事をしているときは気が紛れてもそれ以外はそのような感じでした

  いつ亡くなってもおかしくないと思っていたのでしょう。夜独りで逝きたくないと思っていたのか、3度ほど朝までそばにいてほしいと頼まれました。10日と12日と14日の夜です。1、2時間おきに起きる夫の体をさすったり撫でたりして朝を迎えました。そうしていると少し痛みも治まり安心するとのことでした。

  苦しかった14日の夜が明け、15日朝、先生にエコーで診ていただいたら、痛みも原因はもう腹水ではなく、腸がむくんでパンパンに腫れているからだと言われ、もう痛みを取る手段がないことを知らされました。痛みから解放してあげられるのは緩和ケア病棟に行くことしかなく、ちょうど部屋が空いたと言う話がありましたから、決断しました。意識がある本人からの同意がほしいと先生が来られましたが、返答する力も残っていなく、反応しなかったので、私が「私が決めたことをするということでいいわよね?」と聞いたら、うなずいてくれました。それで緩和ケア病棟に行くことになりました。

  緩和ケア病棟の病室に落ち着いて、痛み止めと眠剤で少し楽になった夫を診察した医師に診断結果について話があると妹夫婦と別室に呼ばれました。

  そこで告げられたのは残された命は日にち単位、早ければ今晩ということでした。それを聞いたときはやはり絶句してしまい、今まで泣かずに我慢してきましたが、あふれる涙を止めることはできませんでした。

  それだけぎりぎりのところだったのだろうと思います。

  病室での夫は薬が効いて穏やかに寝息を立てていました。少しでも苦しそうな感じになると薬を入れてもらえましたし、それもすぐ効いてゆっくり寝ているようでした。

   旅立ちは苦しみもなく穏やかにやってきました。痛みにゆがむ顔を見てきましたから、本当に眠るように逝ってくれたことはよかったと思っています。

  本当に本当に苦しい中、書き上げたこの遺稿をどうかたくさんの人に読んでいただき、夫の気持ちや言葉が読者に伝わりますように願ってやみません。

 澤さんが、これほどにまで苦しみながら、書き上げたのは原子力体制論だった。

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