20世紀前半に米フォード社は自動車「T型フォード」を発表する。その製造手法である「単品種大量生産」によってコストを下げ、安価な自動車が市場に登場したことから、他の工業製品もフォードの手法を模倣する。こうしたシステムを「フォーディズム」という。
しかし1970年代に突入すると、自動車や三種の神器と呼ばれた白物家電等の耐久消費財が飽和する。単品種大量生産のフォーディズムではモノが売れない。そこで現れたのが、「多品種少量生産」システムである。
まだ使える家電を消費者に買い換えてもらうために冷蔵庫に野菜室を設けたり、炊飯器に音をつけるなど、デザインや新しい機能を追加する。消費者は、「他人とは違う」モノを所有することでアイデンティティを獲得する。だから商品は「多品種少量生産」でなければならず、それを実現するために、あらゆる労働者は日々アイデアを求められることになり、創造性が重要視されるようになった。
アイデアとは何も商品だけではない。例えば小売店ではアルバイトでも売り方や棚の配置を考えるようになったり、運送業者は一定の裁量を与えることでより合理的な配送計画を立て、仕事の効率化を図る。
こうした要求は、一方で労働者の仕事に対するモチベーションを与えるが、他方でそれは、生活のあらゆる場面で「これは仕事に使える」といった発想を求められることであり、すべてが労働に接することを意味する。これがフォーディズムを超えた「ポストフォーディズム」と呼ばれるシステムである。
フォーディズムを批判した1936年の映画『モダン・タイムス』において主演のチャップリンは、人が機械の歯車のように無思考状態で働くことを批判した。逆にポストフォーディズムにおいては、労働者は主体的に仕事に関わるが、それ故に24時間仕事が頭から離れないのだ。
創造性は何から得られるのか
「切断する権利」は、いうなれば成長を求められることから距離を置くための権利だ。「生涯学習」のような言葉が端的に表すように、我々は成長を求められている。それは、成長によって得られる創造的な仕事が大きな収益を生むからである(工業化から情報化産業へと主軸が移った先進各国では、知的労働がとりわけ重視される)。無論、成長や創造性、労働に主体的に関わるモチベーションは、端的に「良いこと」である。しかしながら、成長や創造性を求められる現代社会においては、自分を社会から切断する勇気が持てなくなるのも事実だ。社会と関わらなければ自分が置いてかれ、労働市場で負ける、成長できなくなる、と我々は考えてしまうからだ。これがポストフォーディズム下で労働する我々の意識ではないか。