社会人になってからの「たまたま」と「出たとこ勝負」も大切です。
亀井君は、1979年に衆議院議員選挙に出馬し当選しますが、77年に警察庁に辞表を出して立候補準備を始めたとき、福田赳夫元総理の門をたたきました。大下英治著『永田町ビッグバンの仕掛人 亀井静香』 (小学館文庫、1999年2月刊)にはこうあります。
十二月初旬、静香は永山(編集部注:永山忠則氏。衆議院議員を11期務めた、広島県県北の有力政治家)に連れられて、兄の郁夫とともに赤坂プリンスホテル別館にある福田派 清和会の事務所を訪ねた。
永山は、静香を紹介した。
「かれが、わたしの後継者として出馬することになった亀井静香君です。よろしくお願いします」
福田首相は、いつもの飄々(ひょうひょう)とした口ぶりでいった。
「きみのことは、秘書官から聞かされているよ。ひとつ、がんばってくれたまえ」
秘書官とは、警察庁から出向している高田朗雄のことである。高田は、静香をかわいがっていた。静香の人となりを福田首相に伝えてくれていたのである。
大下英治著『永田町ビッグバンの仕掛人 亀井静香』 (小学館文庫)
福田康夫元総理(福田赳夫さんの息子さん)は、亀井君や私たちと同い年です。丸善石油(現コスモ石油)の会社員を経て、政治家になっていきました。
康夫さんより5歳下の小泉純一郎元総理は、若いころ、福田赳夫さんの書生をしていました。ですから、福田康夫さんは、亀井君や小泉さんからみると師匠の息子さんで、亀井静香君と小泉純一郎さんは、私から見ると同じ福田赳夫さんの門下生、つまり兄弟弟子です。
話は、私が信越化学工業に入社した1961年より前にさかのぼります。1961年ごろの信越化学は上場化学会社の中で非常に小さい会社でした。それよりずっと前、信越化学が非上場の小さな会社だったころの話です。
「出たとこ勝負」で困っている人を助ける
1948年、昭和電工事件(当時は昭電疑獄と呼ばれた贈収賄事件)が起き、当時、大蔵省主計局長だった福田赳夫さんは、浪人となりました(後に無罪)。日本電源開発(現・J-POWER)総裁・信越化学工業社長の小坂順造氏は、浪人だった福田赳夫さんを信越化学工業の嘱託(ないしは顧問)として迎え入れました。決して簡単な判断ではなかったと思います。福田さんは毎日しっかり信越化学の丸ビル本社に出勤していました。
福田さんの日頃のお世話は、小林周蔵取締役(後の社長)がなさったといいます。福田さんは、大蔵省が用意した社団法人・金融財政事情研究会(1950年設立)の初代理事長に就任し、生活の安定を得ました。
人が困っているときに、「出たとこ勝負」で素早く手を差しのべる、小坂順造さんの伝統は、その後の信越化学の歴代社長さん達に受け継がれています。いまでは信越化学はずいぶん大きくなりましたが、その安定的成長とこの伝統は、決して無関係ではないと思います。