激しい立木打ちを日に何千回も行い、学生時代は「朝に三千、夕に八千」と、一日に1万回以上も繰り返すこともあったそうだ。これほどに厳しい稽古をしてきたことについて、東郷は「自然体ですよ」と穏やかに笑うのみだが、常に「お前がやるかどうかだ」と問いかけてきた父を、心技両面で尊敬していたからこそ、最初は逃げ出したかったかもしれないけれど、結局はその言葉に応えようとする気持ちになったのだろう。その気持ちが東郷にとって継続の下地となり、続けているうちにレベルが高まっていくことが喜びとなり、自分から得ようとする域に達したのだと思う。何かを極めようとする人がたどる、典型的な道のりの一つといえるかもしれない。
「一の太刀を疑わず」を旨とする示現流では、当然ながら太刀打ちの速さが重要となる。薄い紙を貫く錐が、紙の表から裏に達するのに要する時間を雲燿(うんよう)と呼び、雲燿の一瞬で太刀打ちができる技を習得しているのは、門弟含めた300人のうち、現在でも東郷ともう一人だけだという。20代前半にはその段階に達していた東郷の力は、宗家となるのに何の不足もなかったであろう。
自分が思ったより30センチも手前で
木刀が空を切った
事故は、宗家となった翌年に東郷を見舞った。車の運転中、道路に飛び出してきた猫を避けようとして柱に激突したのだ。
「肋骨が激しく折れて心臓に突き刺さる寸前となり、左膝の靭帯も断裂。何よりショックだったのは、左目の眼球が破裂し、義眼を入れなければならなくなったことでした。半年間の入院中、これまでのように動けないだろうという絶望感で、悶々としていました。宗家とは、やめることはできないもので、生きている限りは続けなければいけません。だから、6階にある病院のベランダから飛び降りて命を絶とうかと考えてしまいました」
「退院して初めて、初度の燕飛(しょどのえんぴ・修行の第一段階の最初に習得する型)をやった時、初手のところで自分が思ったより30センチも手前で木刀が空を切りました。もうダメだなと思いました。切っ先3寸と言うように、動き回る相手を剣先から3寸のところで打たなければいけないのに、こんなにずれてしまったんですから」
雲燿の域に至っていながら、入門して最初に習う技すらできなかったのだから、さぞショックだったろうし、後ろ向きな気持ちになることもよくわかる。そこから東郷は、どうして立ち直れたのか。
「ふと、父の『わがこっじゃらいよ』を思い出したんですよね。既に他界していましたから、実際に言われたわけではないんですが、この状況をどうするかは自分次第だし、ずっとそうやってきましたし」
小さい頃から、やるかやらないかは自分で決めることだという考え方が刷り込まれ、きついことでもそう考えて続けているうちに一つの高みに至ることができるという成功体験が、東郷の体の中にある記憶だったのだろう。