頭の中ではなく体の中、というのは、東郷が父の言葉を思い出したのが道場に立っている時だったということでもわかる。道場に敷かれた土は、江戸時代から宗家や門弟たちが踏みしめてきたものであり、東郷もそうやって稽古を積んできた。死なない限り修行が終わることはないという感覚と、ご先祖様もずっとそうしてきたという歴史が、東郷の中に染み込んでいるから、道場の土に足の指を噛ませている時に、父の言葉を通じて自らの生き方を思い出すことができたのだと思う。
もちろん、どん底まで落ちたという状況、何事もやるかやらないかが極端だという東郷の性格も、プラスに作用したはずだ。
示現流では「人に隠れて稽古すべし」との教えがあるため、東郷も怪我の後の努力については多くを語らないが、立木打ちはもちろん、食事をしている時も右目で距離感を測る訓練をし、退院から1年ほどで、ほぼ元の動きに戻ることができたという。
「もう一度やり直そうと思ってからは、そんなに焦りはなかったですよ。死ぬ間際に『俺はこれでよかったんだ』と思えれば奥義を極めたことになるんでしょうし、いま宗家が完璧じゃないからダメだということではないですし」
生きている以上、さまざまな壁が立ちはだかる。壁の高さを嘆いたり、運の悪さを呪ったりするものだが、結局、問われているのは「自分がやるのか、やらないのか」の一点である。自分の問題だと腹を据えられなければ、現実逃避の道を歩むだけだし、そうやって今際までの長い月日を生きるのは、やはり格好が悪い。
易きに流れるのが人間だからこそ、親でも友でも上司でもいいから、「お前はそれでいいのか」と問いかけ続けてくれる存在が必要なのかもしれない。根気がいるし、問いかける側も逆に生き方が問われることになるけれど、そうした存在によって「自分でやるしかない」という心が持てるようになれば、自ら壁を乗り越えた時の喜びが人を大きくするだろうから。(文中敬称略)
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