「新・鉄の女」
キャリー・ラム氏は、一般庶民の家庭に生まれ、学生時代からずっと成績は首席だった(一度だけ試験で2番になったことがあり、涙したことがあったと言う)。香港大学卒業後、公務員となった。多くの日系メディアは雨傘運動から彼女を取り上げ始めたが、香港人の中で彼女の名前が広く知られるようになったのは、07年に起きた皇后ふ頭の撤去問題だ。このふ頭は中環(セントラル)という香港の中心部にあり、エリザベス女王やダイアナ妃など、イギリス王室と総督など限られた人しか使用しないという格式と伝統のあるふ頭だった。しかし、周辺の埋め立てによる再開発で取り壊しを決定(結果的には、一部が保管され、別な場所に再建することになった)。香港市民による座り込み運動が起こったが、その時に香港政府の代表として対応したのがキャリー・ラム氏だった。最終的には警察が活動家を強制排除したことで終了したが、政府はこのときの彼女のタフネゴシエーターぶりを評価。前行政長官である梁振英(CY・リョン)氏が、在任時に彼女をナンバー2に抜擢する要因となった。雨傘運動時の学生との話し合いの時は、07年に彼女が行った皇后ふ頭の撤去での対応を思い起こした香港人が多かった。彼女はしばしば「鉄の女」と評されるが、初代の「鉄の女」は、03年に香港版「治安維持法」と呼ばれる、基本法23条に基づく国家安全条例の制定を目指した葉劉淑儀(レジーナ・イップ)氏であるので、キャリー・ラム氏は「新・鉄の女」と評した方が正しいだろう。
なぜ中央はジョン・ツァン氏を支持しなかったのか?
経済都市である香港の財政長官として、ジョン・ツァン氏は世論から高い評価を得ていたにもかかわらず、なぜ中国政府は支持しなかったのか? まず、選挙委員会で多数を占める新中派の支持を取り付けなければならないにも関わらず、彼は民主派の支持をとりつけようと動いたことが敗因として挙げられる。選挙改革についても、完全普通選挙に近いことをするという民主派の意向を取り入れた。中央政府の香港の出先機関である中央政府駐香港連絡弁公室の職員は、ジョン・ツァン氏を支持しなかったにも関わらず(立候補を控えるよう説得したという報道もあった)、親中派以外の票と財界の一部の票を取り込めば、彼が当選できると票を読み、出馬することとなった。ただ、取材をして見えてきたのは、彼が「見た目は香港人だが中身はアメリカ人」と判断されたことも、少なからず選挙に影響したのではないかということだ。確かに彼は香港生まれだが、13歳の時にアメリカに移住。思春期にどういった教育を受けるかは、その後の思想に大きな影響を与えるが、その意味で、彼はアメリカの考え方に強く影響を受けている。