この熱き人々

2017年5月22日

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吉永みち子 (よしながみちこ)

1950年、埼玉県生まれ。85年、『気がつけば騎手の女房』で大宅壮一ノンフィクション大賞を受賞。著書に『母と娘の40年戦争』(集英社文庫)、『怖いもの知らずの女たち』(山と溪谷社)、『試練は女のダイヤモンド』(ウェッジ)などがある。

 もし織りを始めたばかりの頃ならすれ違っていたかもしれない出会いは、自分の中で求めていてできない葛藤を抱えた時期だったからこそ、運命的な出会いになった。なぜこの布は経の色が鮮やかに織り出されているのか。その答えを探すために、糸を抜いてみたり、ためつすがめつ眺めたり、ついには福岡の工業試験場に持ち込んで分析を依頼。結果は1枚の紙に簡単な手書きで届けられた。

 「1センチ四方に経糸41・8本。緯糸21・4本。糸の番手は、経糸が28番、緯糸が39番でした」

 わかったことは、経糸の密度が緯糸のほぼ2倍。普通は経と緯の割合は1対1なのだが、この布は2対1の割合で経糸が多く緯糸が少ない。糸の太さを表す番手は、細いほど数字が大きくなるので、経糸より緯糸のほうが細いことになる。

 「さっそくその通りに織ってみたんですけど、あの布とは違う。もっとガサガサして木綿のザラッとした感触なんです。あのなめし革のような手触りじゃない。使い込んであの感触が生まれたのなら、最初から使い込まれた手触りのものを織れないかと考えて、経糸をより細い糸にして60本、緯糸を20本と3対1にすると、同じ手触りでキリッとした経の色ができると、たどり着いたわけです」

 

 どんな思いで小倉織を復元したのかとよく聞かれるけれど、復元しようと思って試行錯誤していたのではないと、築城はちょっと困ったように言う。どうしたら自分の求める布ができるのかと追求していたら、結果的に小倉織を復元していたということなのだ。

 「私は、紬も縞で織っていたんですよね。どうも横で表現するものには興味がもてなくて、縦で表現するものに惹かれていた。永遠に交わらない平行線で、どこまでも他と妥協しないまっすぐな線。緯糸は布を織るのに必要ですけれど、縦だけの世界が好きだった。今までずっと求めていた表現がこの中にあったんです」

 小さな1枚の布裂は、結果的に小倉織を蘇らせることになったのと同時に、染織家・築城則子が目指そうとしていた表現世界の方向をも明確に照らし出したということになる。

求めていた表現世界へ

 北九州で過ごした幼少時代、築城は染めにも織物にも無縁の文学少女で、上京し早稲田大学の文学部に入学。「宵(よい)の水」「異風」「薄暮(はくぼ)」「碧夜(へきや)」「瀑音(ばくね)」など、織り上げた布に付けられた名前に、その片鱗がうかがえる。

 大学で室町時代から江戸時代にかけての近世演劇を専攻し、能や狂言、歌舞伎などを観るようになって、築城の中に新たに目覚めるものがあった。

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