WEDGE REPORT

2017年9月2日

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風樹茂 (かざき・しげる)

作家、国際コンサルタント

作家、国際コンサルタント(kazakishigeru@gmail.com)。1956年、北海道生まれ。東京外国語大学スペイン語学科卒業。メキシコ留学後、中南米の専門商社を経て、南米アマゾンの奥地でODAプロジェクトの鉄道建設にかかわる。その後は、シンクタンク、研究所勤務などで、首相向けの政策提言、ODA援助、海外投資、NGOプロジェクトに従事。イスラム開発銀行のコンサルタントも経験し、30数カ国を踏査。石油関連事業でカタール、ベネズエラに駐在。

ボリビアの特殊性を最後まで理解していない

 海外事業を成功させるためには、地域の特殊性を把握し、適正技術、適正規模、適正プロジェクト形態を作ることが欠かせない。だが……

 「カンバとチャパコは軟弱者たちである」

 2人ともボリビアの低地の出身者である。ゲバラ日記ではカンバ族と翻訳されているが、
誤解されやすい。人種や民族による区分ではない。ボリビア全土で低地の人間はカンバ、高地の人間はコーヤといい、文化・生活様式が大きく違う。

 高地はどちらかというと先住民の血が濃い人々が住む。日本人が思い描く、山高帽をかぶってケーナの笛やチャランゴでフォークローレを奏でる人々である。けれどもその地域の人間ならば白人であってもコーヤと呼ばれる。勤勉で政治的で忍耐強く倹約家で酒飲みである。労働運動や共産主義に親和的なのはコーヤのほうだ。

 一方カンバの住む低地は、先住民は少なく、混血か白人の血が濃い。人生の価値は享楽的で酒、女、カーニバル。音楽も陽気なクンビアである。ゲリラには向かないし、主義のために死ぬなどばかばかしいと本来考える人々である。

 結局、カンバはゲリラ戦数カ月で脱退を申し出、脱走する。チャパコは精神を患ったまま、脱走せずに最後までつきあい機銃掃射で殺される。なおチャパコとは、アルゼンチン国境のタリハ州の人間を指し、青い目の美人が多く、日本では知られていないが素晴らしいワインの産地である。

 ゲバラは社会的、地理的条件によってゲリラ戦の形態や手法も変わってくると理論上考えていたが、日記にはこのような文化の相違の記述はない。

兵站の杜撰さ

 『ゲバラ日記』には食べ物にかかわる記載が充満している。第二次世界大戦のときのインパール戦や南太平洋での日本陸軍を思わせるほど兵站は杜撰である。食糧や水は現地調達。だから隊員はいつも腹が減っている。子猿、野ブタ、鳥、椰子の芽(パルミータ)を狩猟し、荷物運搬用の馬を次々に殺して食べていく。

 さらに会計事務所のあったラパスやキューバ本社や前衛隊と後衛隊との通信手段さえない。ハンディトーキーも他の無線機器も持っていない。ゲバラがトランジスターラジオでニュースを聞くだけである。

盗み食いが頻発する

 空腹の前で革命は虚しい蜃気楼となる。

 「ミルク缶を取りに出向いたところ、不可解にも23缶が蒸発していることを発見した。モロが48缶置いてきたが、誰にも横領する暇はなかった筈だ」

 「私は、べニーニョを、缶詰を食したにもかかわらずそれを否認したことで、ウルバノを、チャルキ(干肉)を皆に隠れてこっそり食べたことで、そしてアニセトは食べ物に関係することならなんでも熱心に手伝うのに、それ以外はなにひとつ協力したがらないことで非難した」

 ゲリラの生き残りの1人キューバ人のアラルコン・ラミレス(キューバに幻滅し94年にフランス亡命 2016年没)は「8月になると40度の炎暑の中、6日間水がなかった」と述懐している。食糧も水もなければ当然、士気は堕ちる。それどころかボリビア人戦士でキューバ留学経験者のチャパコは精神が崩壊した。

住民を敵に回す

 ゲリラは基本的に金を支払って農民から食糧を調達していた。時には時価の3倍も支払って薬なども買っている。けれども、多雨密林地域ではすぐに道が途絶する。ある程度食糧の備蓄がいる。ジャングルの中での鉄道建設事業でも鉄道のストライキと豪雨のせいで一週間ほど交通が途絶して200人分の食糧が不足しそうになった。隣町の市場に出向いて野菜などを購入したが、市場にあるすべてを購入するわけにはいかない。日本企業が買い占めたと住民の反感が募る。 

 ゲバラにはそういう類の住民配慮が足りなかったか、その余裕がなかった。

 「上下両方からやってくる農夫たちを次々に拘留していったので、多種類の捕虜を捕まえることができた」

 「われわれは生活物資と大量のバナナを積載したトラックを、かなりの人数の農民もろとも強奪した」

 「一軒は家の者全員が逃げ去ってもぬけの殻だったので、そこにいたラバを徴発した。もう一軒の家のものは全然協力的でなかったので、脅しに訴えなければならなかった」

 道案内に農民の男たちを連れていく時には、家に残された女たちは泣きわめいていた。イラクで家々を誰何して回るアメリカ軍と変わるところはない。このような態度では農民を味方にすることなど到底無理。ゲバラは6月と9月の解析で以下のように記載している。

 「農民を補充兵として取り込めないままでいる。彼らは扱いにくい集団である」

 「軍隊が実戦においてより有効性を発揮しつつあり、農民がわれわれを支援するどころか情報提供者になりつつある」

引き際を間違える

「敗北を匂わす風が吹いていた」

「万事が完全なカオスの風を呈しており、なにをどうしたらよいのか誰も分からない」

 3月20日付けの記載である。ゲリラ事業が5カ月弱経った段階で、まだ状況を把握できていない。海外プロジェクトの現場は筆者の経験だと最初の3カ月は何をどうしたらよいのかさっぱりわからないという状況に置かれる。けれどもそのあとには徐々に周囲の環境を理解し、プロジェクトは進捗していくものだ。

 けれどもゲバラのゲリラ事業は違った。なるほど海外プロジェクトや投資の引き際の決断は、誰にとっても難しい。失敗したと分かっていても泥沼に嵌る事例があとを断たない。ゲバラは6月14日の誕生日には「39歳になりゲリラとしての将来についても考えなければならない」と記していたのだが。結局、多くの若い命を死地へと追いやることになる。

山賊としての死を自ら予言する

 ゲバラはボリビアで殺害される7年前に『ゲリラ戦争』を発刊している。その中でこう述べている。

 「ゲリラ戦士は地域住民の全面的な援助に頼っている。これは必須条件である。このことは地域に横行する、たとえば山賊の場合を考えてみれば明快に理解できる。彼らは統制、リーダーへの尊敬、勇敢さ、土地勘など、ゲリラ軍が持つ多くの特徴を備え、とるべき戦術を正しく理解している事さえしばしばである。ただ一つ、欠けているのは人民の支持であり、だから彼ら一味は必然的に軍や警察に捕らえられて掃滅される」)『ゲリラ戦争 新訳 チェ・ゲバラ 中公文庫』

 67年10月8日ゲバラは部下とともに ボリビア軍に捕らえられ、翌日銃殺された。

 「写真家 チェ・ゲバラが見た世界」は大盛況だった。ある中年女性は涙をながさんばかりに、「感動したわ」と言って出てきた。こうして世間はゲバラを英雄として崇めていく。

 一方、私は中学生のときから、世間を信じることができなくなった。

  
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