邦楽に軸足移したきっかけ
浜野保樹教授(以下「浜野」) ともかく、パワーをもたなきゃ好きなものも作れない、と。それで邦楽に移るきっかけはあったのですか。
石坂敬一会長(以下「石坂」) きっかけはジョン・レノンです、やっぱり。
ジョンがテロに遭ったときです。1980年12月8日、ジョン・レノンが射殺されちゃって。
あぁこれで、レノンに対する自分の「バトラー(執事)」としての働きは…バトラーでなくて「ジャニター(小遣いさん)」でもいいやって思ってました、その ぐらいレノンには傾倒しておりましたが、それは終わったな、と。
レノンの年取った姿は見たくなかった、実を言うと。
あの頃だんだん、見たくないレノンが見え始めていた。70年代中ごろからですけど、「おれはハウス・ハズバンド(主夫)でいくんだ」なんて言い出したり ね。お料理と、お洗濯のレノン。これはちょっと、イメージ合わないなって思い出してた。
そんなとき激変があったんで、ここで洋楽とさよならして、とね。
浜野 ただ、邦楽とはいっても石坂さんの場合はロックですよね、あくまでも。
クリエイション、コスモス・ファクトリー、
サディスティック・ミカ・バンド
石坂 当時は日本のロック、その揺籃期です。初期において、わたしは洋楽手掛けながら、クリエイションとか、フェリックス・パパラルディを入れたクリエイ ション(1976年)とか、コスモスファクトリーつくってたし、応援団としてはサディスティック・ミカ・バンドをやってたんです。
その1973、74、75年ぐらいが、日本のロック勃興期ですよ。
主流になったのは、サディスティック・ミカ・バンドの中間派ロックと、フラワー・トラベリン・バンド、クリエイション、それから四人囃子のヘヴィなロック。それとはっぴいえんどなどの、詩を重要視した日本語ロックという、この3種類ですね、当時は。
どれも、シングルヒットがない。今後日本のロックが伸びるにはシングルヒットが要るって話を、わたしと内田裕也さんと、加藤和彦(1947-2009)さんと考えて、とにかくサウンドはいいのができた、と。
爆発しないのはシングルヒットがないからだ、なんて言い合ってたら、矢沢永吉さんが当たった。これはわたし、関係ないですが。ソニーで矢沢さんが当たった。「時間よ止まれ」(1978)です。
それからキャロル系がどんどん当たって、「日本の」ロックと言わなくてもいい時代に80年代以降なっていきましたね。