2024年12月23日(月)

池内恵「中東の眼 世界の眼」

2011年1月31日

1月25日に勃発したエジプト全土での大衆蜂起は、ムバーラク政権を崩壊の寸前に追い詰めている。アラブ最大の国エジプトの変動は、アラブ諸国全体に大きな影響を与える。事態は刻一刻と変化している。カギは特権をもつ軍部の動向だ。

 エジプトの体制が揺らいでいる。1月25日に始まった大規模な抗議運動は全国に広がり、6日目に入ってなお勢いを増している。1月31日未明(現地時間)の段階では、焦点となるカイロ中心部のタフリール広場や、アレクサンドリア、スエズの主要部で、群衆と軍が、互いの距離を測り合うように、対峙している。

 最初の大規模デモから1週間となる2月1日に、「100万人」を集めるデモを行うという計画が広まっており、その時までに政権が崩壊していなければ、2月1日が次の山場となる。

1月25日「怒りの日」から
1月28日「怒りの金曜日」へ

 発端は20代の若者がフェイスブックを利用した抗議運動である。2008年の4月に大規模なストライキがあったが、その際にストを支援する若者2人がフェイスブック上に「4月6日若者運動」を立ち上げた。それ以来、警察の拷問や、物価高騰、失業などに関する不満を結集する場となっていた。このグループが1月25日を「怒りの日」と名付け、「拷問・貧困・汚職・失業に対する革命」を呼びかけた。

 1月25日は、エジプトの国家の休日で、1952年に北東部の都市イスマイリーヤでエジプト警察が英国軍と戦った事績を記念するものである。エジプトの政権は英国の植民地主義と戦って完全独立をもたらしたという歴史を体制の正統性の根拠としてきた。1月25日の警察記念日を、警察の拷問に反対する抗議行動の日に選ぶ、反体制側の戦略は効果的だった。かつて英雄的に外来の支配者と戦ったとされる警察が、今は市民を抑圧する特権・支配階層と成り果てたという事実を際立たせ、体制そのものの正統性が喪失していることを強く示唆していた。

 チュニジアのベンアリー政権が1月14日に、大衆蜂起によってあっけなく崩壊したことは、無力感が漂っていたエジプトの反体制運動に火を付けた。

 1月25日の抗議行動が、各地で一万人を超える規模に展開したことで、これまでのインターネット上で呼びかけられた抗議行動の規模を遥かに超えた。翌日と翌々日にもデモがおさまらず、金曜礼拝で人々が集まるため動員が容易な28日を抗議運動の側は「怒りの金曜日」と名付け、広範な動員をもたらした。

エジプト全土でインターネット切断

 インターネット上での盛り上がりを察知したムバーラク政権は、28日にエジプト国内のインターネットを全面的に遮断し、携帯電話やブラックベリーのショートメッセージの送受信も停止。携帯電話の通話も主要都市で切断したが、それでも群衆がデモに参加した。1月28日の午後6時からの外出禁止令に多くが従わず、政府の威光を真っ向から否定して見せたことが、さらに心理的閾を越えさせることになった。翌日は外出禁止令が午後4時からに早められたが、逆にその時間に合わせて中心部に集まって意思表示をするという逆効果になっている。


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