2024年4月19日(金)

ペコペコ・サラリーマン哲学

2011年2月10日

 2011年1月8日(土)に私は千代田区大手町の日本ビルヂング10階に、いつもの通り出勤しました。新潟県上越市の友人(直江津精密加工の中村武彦社長)と電話で私の近著『Mr. 金川千尋 世界最強の経営(中経出版刊)』について、2人で夢中に話していました。

 その最中に非常ベルが2回けたたましく鳴りましたが、私はいつものように火災訓練だと軽く考え、電話で話し続けていました。その時、警備会社・消防署の人3人が凄い勢いで部屋に飛び込んできて、「火事です! すぐ避難してください!」と大声で叫んだので私は中村さんに「火事なので、さようなら!」と言って電話を切り、オーバーと帽子とカバンを鷲摑みにして、警備員の1人と共に10階から1階まで一気に駆け降りました。

 この間数分だと思いますが、「本当に火事ですか?」「はい火事です」、「あなたのお名前は?」「タケイです」、7階あたりで〈頭の中では3秒間ぐらい〉「もう、私の命はこれで終わりだ。とにかくオーバーを頭からひっかぶって炎の中を駆け抜けよう」と決意しました。

死にたくない

 いつもの通り、自分が一番大事なので、家族のこともグループ会社の人のこと(実は同じビルにいる信越化学の子会社信越半導体の本社の100人強の人が、当日は1人も出社していませんでした)も、全く頭に浮かびませんでした。

 4階まで来たところで、なぜかそのまま降りられず、ずーっと迂回して非常階段で1階の外へやっと到着しました。もう、足はがくがくでした。私は、このビル全体の避難者の中ではビリで、何百人の中での最年長でした。とにかく「死なないで、今ここに立っていることが何より嬉しい」と、一人で言葉に出しつつ、考えました。すでに、空には報道メディアのヘリコプターが3機、消防車が何と33台、警察の車も1台。消防士の人達は完全に臨戦態勢の防護服の身支度でした。

 物すごい緊迫感の中で、11時から13時まで寒空の下、我々何百人はおとなしく立ちつくしていました。しかし、周囲は、騒然としていました。テレビ局も既に数社が来ていて、どんどんインタビューを始めていました。

 私は仲間が全くいない(信越化学グループでは私1人)上に、一人ポツネンと黒いオーバーと帽子をつけていたからでしょうか、3つのテレビ局の人からインタビューをうけました。「ビル管理会社の対応はどうでしたか?」「現段階ではちゃんと対応しています」「警備会社の仕事ぶりはどうですか? 大怪我をした人はいましたか?」「全体は分かりませんが、私は警備員の人の適切な判断で10階から1階まで駆け降りることができました。そのお蔭で命拾いしたと思っています」というやりとりでした。感謝でいっぱいの私のコメントは、メディアの人にとっては、あまり面白くないようでした。

噂が「走る」

 一方で、私は避難している人達の間で、人の口から口へと噂らしきものがすぐ伝わっていくのを、はじめて、この耳で聞きこの眼で見ました。


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