三ツ星獲得後の葛藤
米田がこの地に店を開いたのは08年、35歳のとき。店名は「HAJIME RESTAURANT GASTORONOMIQUE OSAKA JAPON」だった。とても長い。その頃、自らの思いを込めるにはこの長さが必要だったのだろう。真ん中に挟まった「ガストロノミック」は、当時まだ一般的には浸透していない言葉で、多くの人は「何それ?」という反応だったはず。料理を中心にさまざまな文化的要素で構成されるという意味合いで、ほんの一部の人が理解していた程度だ。
客にも、米田にとっても、当初はすべてが初めて尽くし。開業前は「ザ・ウインザーホテル洞爺(とうや)」の名店「ミシェル・ブラス トーヤ ジャポン」の部門シェフだったので、シェフとしてすべてを仕切るのも初めてなら、店の経営も初めて。巨匠ミシェル・ブラスの弟子の店として客の期待に応えなければならない。でもスタッフの多くが未経験者。トレーニングを積んでも、現実はそれを超えた試練を伴って目の前に現れた。
「開店した翌日から3日間店を閉めました。お客様から、丼物の店だって水ぐらいは出るよと言われました。水を出していなかったんです。それからも、メニューを常に新しくし、ランチとディナーの営業で本当にヘトヘトになって、勉強してきたものを全部出し尽くしてしまったように感じました」
半年後、再び店を休んで、30歳から研修を積んできたフランスに一時戻った。修業時代の仲間にどんな料理を出しているのか聞かれて写真を見せると、「あ、ダメだ。修業していた頃のコピーじゃないか」と言われた。
「修業してきたことを生かして必死に考えアレンジして作り上げているのに、何だ! と、ケンカして帰ってきました」
憤慨をバネに店を立て直して、翌年には三ツ星の評価を獲得。課題山積の状況を速やかに克服しての評価は、米田の料理人としての力量と経営者としての才覚を示して余りある。
快挙が報じられると、次に待ち受けていたのは1日400本もの予約の電話。当時は1週間で7時間しか睡眠時間が取れなかったという。経営的には極めて好調ではあるけれど、またもや疲労困憊(こんぱい)。半年で自分の中が枯れてきているのを感じていた。ものづくりが好きで、きれいなものを追求するのが大好きだという米田が、自分自身の美意識が揺らぎ内から溢れるものがなくなれば先に進めなくなる。一大事である。
「コピーだと言われて腹を立てたけれど、実はそれがずっと引っかかっていたんです。メニューを考える時、まず料理書に手を伸ばしている自分がいる。そこからアイデアが浮かんでも、基本は誰かがすでに考えた料理なんですよね。フランス人ではない、日本人である自分の根源はどこなのだろうと考えました」