この熱き人々

2018年5月22日

»著者プロフィール

 米田が初めて料理人になりたいという意思を表明したのは小学5年生の時である。テレビで見たシェフのコックコート姿がカッコよかったのと、世界で評価されることに触発されたからと米田自身は語っている。が、料理人になりたいと明確に意識し、その後も揺るがずに現在に繋がっているのに、料理学校に入る26歳までなぜか料理を作ることにあまり関心を示していない。中学では美術部で絵を描き、後にフランスで生活に窮乏した時には個展を開いて好評を博したほど。一方、数学にも夢中になり、大学では格闘技にはまっている。まるで料理人の夢は消えたように見えるのに、高校卒業時には料理の勉強をしたいと主張。が、父親に反対されて大学の電子工学部に入学。卒業後は、料理学校の授業料を捻出するために、エンジニアとして就職して3年間電子部品の設計に携わっている。理系シェフといわれる所以(ゆえん)である。

唯一無二の表現を求めて

 「日本人の僕は母の家庭料理を食べて育ったわけで、ルーツは日本の料理なのに全く知らない。そこで日本料理を食べ歩きました。なぜそこに豆が3つあるのかとか、なぜこれは手前であれは奥に盛り付けるのかとか、すべて説明できる。凄いなあと思いました。お釈迦様の掌(てのひら)はここにあったのかと衝撃でした」

 この流れだと、日本料理を勉強して鞍替えかと思ってしまうのだが、米田の場合、そういう方向には行かない。日本料理の美意識を保っている法則は何だろうという疑問に向かって突っ走るのである。

 「バックボーンには茶の湯と禅宗があるのではないかと思い、千利休について学んで、その美意識に圧倒されました。じゃお茶をやるのか? でもそれは利休が確立した世界に近づいていくことで、フランス料理を極めようとするのと同じじゃないか。利休は自由に客人を喜ばせようとしていて、その独自の美意識が高かったということなんですよね。そうか、自由にしたらいいんだと気づきました」

 

 無垢な自分が美しいと思ったことにこそ自らの根源がある。遡っていくと、まだ自然が豊かだった枚方(ひらかた)市で育ち、一日中川で魚を追い、春には枝から緑が吹き出す様子を観察し、冬には枯れ葉の下にダンゴ虫を見つけて目を輝かせ、風の音や匂いや空の色や星を美しいと感じていた自分がいた。

 「これこそが僕にしかわからない美しさだから僕自身だ。その美しさや感動をそのまま皿の上に載せようと思いました。その時に、フランス料理をやめようと心が決まりました」

関連記事

新着記事

»もっと見る