ありのままの建築家・堀部安嗣を投影させることができた船は、話が持ち上がってから2年で就航にこぎつけた。が、やはり慣れた陸上の建物ではない。重量の問題、不燃性の徹底などこれまで経験したことのない試練も次々降りかかってきたそうだ。それらをクリアできたのはミラクルだと、堀部は表現した。ミラクルを生み出したのは、かかわった多くの人々の瀬戸内海を愛する気持ちに裏打ちされた責任感と情熱、それぞれの仕事の範囲を超えた結束だと振り返る。
「とてもベタな表現で恥ずかしいんだけれど、凝縮したチームワークのすばらしさは感動的でしたね。この仕事を通して、建築というものを改めて客観的に考えることができました。建築のあり方とか、現在の状態とか、必要なことや目指す方向がよく見えてきましたね」
どんな人をも受け止める建築
堀部が建築に本格的に取り組んだのは、大学を出てからだという。大学は、筑波大学芸術専門学群環境デザイン領域。芸術系、環境デザイン系であることはわかるが、建設、建築、工学などの文字はない。その時点では、建築家になろうという気持ちはなかったようなのだ。
「父の影響で、子供の頃から古い建物を見て回るのが好きだったんですが、自分が造るというイメージはなかったんです。モノを作るのは好きだけど才能があるとは思えなかったし、絵とか芸術系で美大や芸大へというのもちょっと違う。自分が見えないから覚悟も決まらず、総合大学のちょっと芸術系、みたいな弱気な感じの選択でした」
ランドスケープデザインや公園造りなど環境デザインの勉強は楽しかったが、卒業間近になっても、都市計画はちょっと違うかなあと向かう先が定まらない。そんな堀部に担当の教授が、吉村順三設計事務所にインターンシップに行くよう勧めた。吉村の手法や考え方が、どこにも踏み出せないでいる堀部にヒントを与えるのではという深い読みだったようだ。
「もちろん、建築家としてすごい人だと知っていました。当時すでに80代で最晩年でしたが、吉村さんがとてもカッコよかったんです。雰囲気も佇(たたず)まいも只者ではない感じ。事務所のスタッフの方がダメ出しした僕の造った模型を、ハートのあるいい模型だとほめてくれたこともあって、惚れちゃいましたね」
形ではなく、ハートを感じ取ってくれた。建築家・吉村順三に惚れて、そこから吉村の仕事に興味をもち、建築が面白くなってきた。どうやらそういう順序のようである。
大学を卒業し、吉村の弟子である益子(ますこ)義弘に師事して、建築・設計の勉強を本格的に開始。風待ち港で風を待っていた堀部の建築家としての船出は、吉村との出会いによってやっと錨(いかり)が上げられたというわけだ。