定年バックパッカー海外放浪記

2018年6月24日

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高野凌 (たかの りょう)

定年バックパッカー

1953年、横浜生まれ。神奈川県出身。大学卒業後は商社、メーカー勤務を経て2013年定年退職。2014年春から海外放浪生活を始める。放浪歴は地中海、韓国、インドシナ半島、インドネシア、サンチアゴ巡礼など。サラリーマン時代は主として海外業務に従事。ニューヨーク、テヘラン、北京にて海外駐在を経験。身長170センチ、57キロ。獅子座。A型。現在2人のご子息は独立し、夫人との2人暮らし。孫1人。

 ウランバートル市街を見下ろす丘の上に戦勝記念碑が聳えている。ソ連軍兵士を称え、ソ連・モンゴル両軍によるファシストたるナチスドイツ及び大日本帝国への戦勝記念碑となっている。単純化されたソ連邦的歴史観の見本のような記念碑であり、日本人としては釈然としない。しかし、そのソ連邦的歴史観は現在のロシア人や大半のモンゴル人に継承されて、北方領土問題にも大きな影響を与えている。

モンゴル・ソ連の対独・対日戦勝記念碑。構造物のデザインや彫刻絵画は社会主義芸術様式。モザイク絵画は円形の壁に描かれ、右側には旭日旗を踏みにじられ降参する日本軍が描かれている

モンゴル人の対中国警戒感

 4月9日。ウランバートル中心部のモンゴル民族博物館を参観。チンギス・ハーンが創設したモンゴル帝国に係る展示場が大きい。やはり民族の栄光の時代を大きく取り扱うのは、どこの国の国立博物館でも常套である。注)日本とドイツを除く

 モンゴル帝国衰亡後からモンゴル共和国成立までが展示場の次の大きな見せ場となっている。モンゴル帝国滅亡後は現在の中国内モンゴル自治区と現在のモンゴル共和国のあたりをモンゴル部族が治めていたが、中国の明朝・清朝の時代に人口の希薄なモンゴルに中国人(漢民族)農民が移住。

戦勝記念碑からウランバートル市内を望む

 特に現在の内モンゴル自治区のあたりでは、清朝末期には人口の半分近くが漢民族で占められるようになったようだ。清朝時代にモンゴル地域全体が清朝の属国となり清朝の役人・軍人が駐在していたようだ。清朝官憲によるモンゴル人への拷問道具・処刑方法などが展示され清朝による圧政を強調している。

 1911年、漢民族は“滅満漢興”のスローガンを掲げて、満州族が支配する清朝を倒して中華民国建国を宣言。このような混乱の中でモンゴルでは独立機運が高まり独立国家樹立を宣言。しかし中華民国政府は引き続きモンゴルへの支配権を主張。これに対して帝政ロシアは中華民国に異を唱えてモンゴル独立を支持。最終的に漢民族が多く居住する内モンゴルを分離してモンゴル共和国が成立。

 帝政ロシアがソ連邦になるとロシア人はモンゴルを共産国家として育てた。そしてロシア人は日本軍の侵略からモンゴルを守り、第二次世界大戦後はソ連邦を中心とする経済圏にモンゴルを組み入れた。ソ連邦最盛時には数万人のロシア人技術者・専門家がモンゴルに住んで鉱山資源開発を推進というところまで真面目に展示を見学。ソ連邦崩壊後の新生モンゴルの展示は写真をざっと眺めて参観を終えた。

 そんな事情でモンゴル人の中国への警戒感は根深く、他方で依然として親ロシア感情は強いようだ。余談であるがモンゴル・ロシア国境の検問所での光景が印象的であった。ロシア人とモンゴル人の警備兵が朝靄の中で挨拶していたが、お互いに大柄で武骨な男同士が握手したりハグしたり心底楽しそうで親密な交流であった。

  
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以上 第2回に続く 

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