言い出しっぺの“あなた”がやってください
日本に帰国後も、私の「台湾熱」はおさまらなかった。台湾関連本を読み漁ると、日本統治時代の歴史、台湾の戦後史がおぼろげながらわかってきた。むしろますます台湾への関心が強まっていく。その直後、日本でひとつの組織が立ち上がった。台湾の民主化を推し進めた李登輝総統の支持団体「日本李登輝友の会」だ。その団体が12月に設立大会を開いた。
ネット上で「日本李登輝友の会」が設立されるというニュースとともに、「当日の会場運営を手伝ってくれる学生ボランティア募集」という文字も飛び込んできた。もちろん喜び勇んでボランティアに応募した。大会が終わるとき事務局の方に、「学生部か、青年部を作りましょうよ」と提案したところ、「いいですねぇ。じゃあ言い出しっぺの“あなた”がやってください」という展開になった。「李登輝」という名前をようやく覚えたくらいの私が、なんと青年部の部長におさまってしまったのである。
2007年にそれまでの仕事を辞して台湾へ留学。学生を続けながら、日本李登輝友の会のスタッフを続けていくことにした。それも、台北における通信員として。ある程度、中国語で用が足せるようになってくると、中国語が出来るスタッフが不在の会では自然と重宝される存在になっていった。
それと前後して、2007年5月に李登輝が念願の「奥の細道」をたどるため訪日することが決まり、私は撮影スタッフとして同行した。翌2008年9月、私の台湾大学での生活が始まった直後、今度は李登輝が沖縄を訪問。またも撮影班として同行し、前年同様、一般のメディアには報じられないような細かい動向を逐一ネット上で報じた。
さらに2009年には、青年会議所の招聘により東京で講演し、高知県、熊本県を訪問することになった。すでに知己となっていた李登輝事務所の日本人秘書(私の前任者ということになる)から、今度は正式に「李登輝事務所のスタッフとして同行してほしい」と依頼された。これまで2度の同行は、いわば支持団体のボランティアスタッフという立場だったが、今回は正式な訪日団のスタッフとしてである。
総統の日本人秘書は、訪日中は少なくとも総統のスケジュール管理から表敬訪問の申し入れなど、あらゆることで忙殺されるため、同行するメディアの面倒までみることができない。そこで、メディアの面倒をみる役目を私に任せたいということだった。
これが縁となったのだろう。以後、なにかと用があるたびに李登輝事務所へ顔を出すようになり、さらに講演を聴く機会も増え、ついに総統に顔を覚えられるようになった。総統の地方視察にも撮影スタッフとして同行させてもらうなど、私の活動範囲は次第に広がっていった。