前回は、李登輝の日本人秘書たる私が日頃どういった仕事をしているのかをお話しした。今回は、李登輝総統と出会い、秘書として仕えることになった経緯をご紹介したい。実は、「いつもどんな仕事をしているのか?」という質問と同じくらいよく聞かれるのが、「なぜ李登輝の秘書になれたのか?」というものだ。それにはまず、そもそも私自身がなぜ台湾と縁が出来たのかについてお話ししなければならない。
私の運命を変えた「おばあちゃん」
初めて台湾を訪れたのは2002年9月。大学の卒業旅行に、親友と誘い合わせたのが始まりだった。とはいえ、当初から台湾に関心があったわけではない。むしろ台湾に関する知識は皆無と言っていい。行き先を台湾に決めたのも、以前お土産でもらったジャスミン茶が美味しかったから、という程度のものだ。
前半はガイドブックに載っているような観光地巡りをして、夜市を楽しむなどして過ごしたが、9日間ある日程の半分ほどで著名な観光地をまわり尽くしてしまった。「時間はあるけど金はない」という学生旅行ゆえ、行ける場所は自ずと限られてくる。「入場無料」に惹かれて訪れたのが、台湾のホワイトハウスにあたる「総統府」だった。
私たちの担当になってくれたのは黄林玉鳳さんという、おばあちゃんだった。2002年当時、台湾社会にはまだまだ「日本語族」の人たちがたくさん現役で活躍されていた。「日本語族」とは、日本統治時代に教育を受け、流暢な日本語を操る台湾の年配者たちのことである。そんな「日本語族」が総統府のガイドとして多数在籍しており、玉鳳さんもその一人だった。総統府の1階に展示されたパネルを見ながら、台湾のこれまでの歴史を解説してくれた。
「日本時代には、八田與一さんがダムを作って台湾の農業に大きな貢献をしてくれました」「日本時代がなかったら、台湾は今のような現代化された社会にはなっていません」
知らぬこと、知らぬ人物が次々と登場し、ガイドさんの軽妙洒脱な語り口もあって知らず知らずのうちに聞き入っていた。そもそもこちらは、台湾が昔、日本の統治を受けていたことくらいの知識しか持ち合わせていない。そんな私たちにとって玉鳳さんの説明は新鮮だった。
日本から来た若者の姿が嬉しかったのだろうか。玉鳳さんにはその夜、食事まで御馳走していただいた。会話も弾み、食事が終わりに差し掛かる頃、「もうガイドブックに載っているところは行き尽くしました。どこか面白いところありませんか」と尋ねた。
すると彼女は、「じゃあ、食事が終わったら面白いところに連れて行ってあげましょう」とにっこり言ったのだ。タクシーに乗せられて連れて行かれたのは広い公園のような場所。そのなかでグングン進んでいく玉鳳さんについていくと、ライブ会場のような明るい光が見えてきた。
そこはなんと、選挙応援のためたくさんの人たちが集まっている会場だった。後日わかったことだが、この時に連れて行かれたのは、2002年末の台北市長選挙の民進党の選挙演説会場だった。度肝を抜かれたが、不思議なことに私はあっという間にその場の熱気に引き込まれてしまった。
言葉は全く分からない。台湾に対する知識もほぼゼロだったが、ガイドブックの後ろに申し訳程度に付け加えられた台湾の歴史のページを読んでいたのが幸いした。日本の統治を離れた台湾が、戦後中国大陸から敗走してきた中国国民党により、苦難の道を歩み、1990年代からやっと民主化が始まったことくらいは知っていたからだ。
若い、ということもあっただろうし、現地にいる、という興奮も手伝ったのだろうが、私はまさに台湾の民主化や、台湾の建国を熱心に説く(ということを話しているんだろうと思われる)彼ら、そしてそれを献身的に支持する大衆の人々に「感動」してしまったのである。