ベトナム戦争ミュージアム
12月26日。タスマニア北東部の町、スコッツデールの退役軍人会(SRL)の付属施設ベトナム戦争博物館を参観。ちなみに退役軍人会というのは日本人には馴染みがないが、オーストラリアの陸海空軍を退役した元軍人の友好相互扶助のための全国組織である。オーストラリアを旅行していると町の中心部に必ず倶楽部のような洒落た施設があることに気づく。
博物館ではベトナム戦争に従軍した退役軍人(veteran)であるスコット氏69歳とブラッドレー氏72歳が案内してくれた。
第二次大戦中にオーストラリアは徴兵制度を施行。その後も徴兵制度は維持されて朝鮮戦争、ベトナム戦争でも徴兵制度により若者は従軍したという。2人によると各自治体は生年月日の誕生日の日付で対象者を選抜したという。対象者には召集令状(Call Up Notice)が郵送されてきて指定期日に各地の部隊に出頭して入隊した。
召集令状と入隊時の顔写真が展示されていたが、その中の一枚がブラッドレー氏であった。19歳のブラッドレー青年は緊張した眼差しで写真に収まっていた。
タスマニア島の田舎町出身の若者が過ごした“プラトーン”の2年間
ベトナム戦争では米国主導の同盟軍が組織されオーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、韓国、タイ、ラオスが参加したという。二人は攻撃ヘリに搭乗してジャングルのベトコンの拠点を強襲する作戦に二年間従事した。“プラトーン”(小隊)、“地獄の黙示録”などのベトナム戦争映画で描かれたハードなミッションである。
ヘルメット、自動小銃、背嚢、弾薬などフル装備すると50キロ以上となる。この重装備で雨季のジャングルを進むと、しばしば靴がぬかるみに取られ立ち往生。雨季の最前線の塹壕は“全てが泥の中”。泥の中で起きて、泥の中で眠ったという記憶しか残っていないという過酷な日々。
館内には米国製の攻撃ヘリが展示されており、ブラッドレー氏が機銃掃射の動作を再現してくれた。一通り展示物を案内してもらってからコーヒーとクッキーを頂きながら2人の体験談を拝聴した。
2人とも温和で静かな印象の御仁であった。私の実兄と同年代である。当時日本ではベトナム戦争反対の学生運動が盛んであったことを思い出した。私の通っていた神奈川県のフツウの公立高校でも「ベトナム戦争反対。米帝は即時撤退せよ」などと中国共産党略式漢字で書かれた立て看板が正門わきに堂々と立っていた。いずれにしても戦争とは無縁の平和な毎日であった。
他方で“くじ引き”で徴兵された2人の戦場での毎日は“生き延びること”が唯一無二の目標となったという。前線で負傷したら20分以内に野戦病院の医師の手当てを受けられるように組織化されていたことが精神的救いとなった。最前線で負傷したら無線で救急ヘリチームに現在位置が連絡されて野戦病院に20分以内に搬送されたという。
地獄の黙示録のエピローグ
2人は数年前に退役軍人会が企画した旅行に参加してベトナムを訪問。かつて戦ったジャングルは長閑で平和な村になっていた。そして村人と交流して当時の敵であった元ベトコン兵士の老人とも握手した。
かつて敵であったベトナムとオーストラリアが今では親密な友好関係にあることは素晴らしいことだと静かに語った。まさに恩讐を越えた真の和解である。
⇒第4回に続く
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