第一次世界大戦でのオーストラリアの献身
第一次世界大戦当時のオーストラリアの人口は500万人程度であった。資料によると33万人の義勇兵を送り出し5万9000人の犠牲者を出している。オーストラリアはなんと総人口の1%強の戦死者を出しているのである。
タスマニア島のジョージ・タウンで地元の老婦人から聞いた話では、第一次世界大戦ではオーストラリアから若者が志願兵(義勇軍)として欧州戦線に出征したという。スコッツデールの退役軍人会(the Returned and Services League)でも確認したが、当時オーストラリアには徴兵制度はなく33万人は義勇兵(volunteer solders)であったというのが驚きである。
オーストラリアは自治植民地から1901年には独立を認められ大英帝国連邦(コモンウェルス)の一員となっている。当時のオーストラリア人がいかに熱狂的に大英帝国の一員として参戦したのかを端的に物語るエピソードがある。
1914年の第一次世界大戦勃発直後にオーストラリアの首相となったアンドリュー・フィッシャーは「我々は最後の一人、最後の一シリング(our last man and our last shilling)まで大英帝国と共に戦わなければならぬ」と演説している。
B24、Liberator(解放者)博物館
12月3日。メルボルンの西方の産業都市ジーロン(Geelong)を目指して小雨の中を合羽を着て走っていた。林の中に飛行機の格納庫のような大きな建物が見えた。「B24ミュージアム」と書かれていた。咄嗟に第二次世界大戦で活躍した米国製重爆撃機B24を思い出した。
一般の日本人にとっては、東京をはじめ日本列島の都市を軒並み焼夷弾で絨毯爆撃したB29が馴染み深いであろう。しかしB24はB29が第二次大戦後半に実戦投入されるまでは連合軍の主力爆撃機であった。オーストラリアの片田舎になぜB24の博物館があるのか不思議に思って寄り道することにした。
受付のおばさんに5ドルの寄付金を払って雑談していたら、博物館は篤志家がお金を出して運営している。第二次世界大戦中にオーストラリア北部のジャングルに不時着して大破したB24を運んできて、ボランティアにより修復作業しているということであった。
フォード自動車ミシガン工場の流れ作業で大量生産されたB24
中に入るとオーナーであるレオン氏83歳が案内してくれた。田舎の飛行場の格納庫を利用した館内では数人のボランティアの技術者たちがB24の修復作業をしていた。
レオン氏によるとB24は四発エンジン大型重爆撃機であるが、なんと2万機近くも生産され、第二次世界大戦で最も活躍した爆撃機であるという。ちなみにB29は第二次大戦末期に投入されたが、欧州戦線には実戦配備が間に合わなかったという。
装備で目を引いたのはレーダーとレーダーかく乱装置である。ゼロ戦には無線機すら搭載していなかったことを考えると科学技術力の格差は歴然である。ドイツ軍の地上レーダー網をかわすためにアルミ箔のようなものを散布したようである。
当時の最新鋭技術を満載した重爆撃機を2万機近くも大量生産した米国の工業力に改めて圧倒された。B24を開発したコンソリデーティッド社やダグラス社の飛行機工場では当初一日一機しか生産できなかったという。
ところが、フォード自動車のミシガン工場では流れ作業を導入して改良を重ね、最盛期には一つのラインで一時間に一機を完成させて24時間体制で大量生産したという。
10人のクルーのなかで生還したのは唯一人
レオン氏によるとB24は通常10人が乗り組み機長、副操縦士、通信士、爆撃手、さらには6人の機銃操作手というチーム編成だったようだ。復元中のB24はパプアニューギニア方面での作戦終了後、ケアンズ近くの基地に戻る途中で悪天候に遭遇し飛行不能となった。
6人がパラシュートで機外に脱出できたが、4人は間に合わなかった。脱出した6人のうち2人は尾翼に激突して即死。海岸近くに下りた1人はサメの餌食となり、ジャングルでは1人がワニに襲われて死亡。さらに感染症で1人が死亡したと生還した最後の1人の乗組員が手記に残していたとレオン氏が説明してくれた。
レオン氏はこの悲劇を後世に伝えるためにも、何年もかけて修復作業を続けていると語った。