韓国の立場から見たポスト冷戦の世界
韓国に駐在していた日本の外交官と20年近く前、酒を飲みながら交わした会話が忘れられない。打ち解けた雰囲気で話していた時、彼は「冷戦時代の韓国にとって世界というのは日本と米国だった」と言ったのだ。韓国の人たちには怒られるかもしれないが、それは真実を言い当てていた。
前述したように、朝鮮戦争で全土が戦場となった韓国と北朝鮮の間には重武装の大軍同士が対峙する空間が広がっているだけで、相手方陣営との外交などありえなかった。しかも冷戦期の韓国は70年代に経済成長を果たしたとはいっても、経済的に弱体な途上国にすぎなかった。安全保障と経済の両面で、韓国は日米両国に頼らざるをえなかったのである。
植民地支配の記憶が新しかった時代に反日世論が高まったとしても、政権としては野放図な反日を放置する余裕などなかった。象徴的なのが、植民地支配への謝罪なしでの日本との関係正常化に「屈辱外交」だと反発する世論を戒厳令で押しつぶした朴正煕政権の選択だろう。日本の陸軍士官学校で教育を受けた朴正煕を「親日的」と評する見方が日本にはあるが、私は少し懐疑的だ。植民地出身者に対する差別を体験したはずの人物に単純な「親日」を期待するのは、いささかナイーブすぎる。むしろ現実主義者として、日本の資金と技術なしに経済開発を進めることはできないと判断したと考える方が自然だ。他に道がないから反日ナショナリズムを力づくで抑えたのだろう。
だが、前述したように1980年代の世界情勢を受けて「韓国にとっての世界」は大きく変容する。1985年にソ連のゴルバチョフ書記長が登場し、ペレストロイカを始めた。88年のソウル五輪には2大会ぶりに東西両陣営がそろい、経済成長を続ける韓国は東欧の社会主義国と次々に国交を結んでいった。そして89年に冷戦終結が宣言され、90年にソ連、92年に中国との国交を樹立する。「韓国にとっての世界」は日米だけではなくなった。この時期以降、韓国外交の中心として語られるようになったのは、日本、米国、中国、ソ連(ロシア)という周辺4大国を指す「四強」という言葉だった。
それでも軍事同盟に裏付けられた米国との関係は、依然として安全保障に不可欠である。結果として、中ソを中心とする「他の国」が出てきたことで割を食ったのは日本の存在感ということになった。
2003年に発足した盧武鉉政権は、国力伸長を背景に「韓国にとっての世界」をさらに広げようとした。盧武鉉政権の初代外交通商相である尹永寛氏は同年末の記者会見で、韓国外交の課題として「自主外交」を強調した。尹氏は会見で「わが国の国力に合わせたグローバルな外交を展開していくことが、我々の目標だ。四強に加え、EUやASEAN、中東などグローバルなレベルでより積極的な外交活動を繰り広げていく」と語った。そうした意気込みがすぐに結果として出てくるわけではないが、日米との関係が国家としての生命線という時代はとっくの昔に終わった。