迷走する日本の「働き方改革」への処方箋

2019年4月12日

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立花 聡 (たちばな・さとし)

エリス・コンサルティング代表・法学博士

1964年生まれ。早稲田大学理工学部卒。LIXIL(当時トステム)東京本社勤務を経て、英ロイター通信社に入社。1994年から6年間、ロイター中国・東アジア日系市場統括マネージャーとして、上海と香港に駐在。2000年ロイター退職後、エリス・コンサルティングを創設、代表兼首席コンサルタントを務め、現在に至る。法学博士、経営学修士(MBA)。早稲田大学トランスナショナルHRM研究所招聘研究員。

 

誰が責任を取るのか?

 しかし、今日の日本社会では、聖徳太子が提唱した「論理的な議論」はなぜ行われにくくなっているのだろうか。その1つの原因は、組織内部の利害関係、つまり「議論」の結論と組織の構成員の個人的利益(個益)との関係にある。

 あらゆる議論の結論は、必ず、特定の作為または不作為に反映され、さらにこれらの結果につながる。そこで結果に対する評価が行われる。その評価は最後に組織の構成員の個益に反映される。この連鎖によって個益が絡んでいる以上、構成員は機敏に反応するわけだ。

 結果が良ければ、問題ないが、結果が悪ければ、誰が責任を取るかという問題が浮上する。そこで集団合議制の「優越性」が現れる。特定の構成員が責任を取る必要がなく、係わった全員が責任を取る。責任を人数分で割れば、1人あたりの分担が軽くなる。一定の合理性がある。そもそも独裁政治から民主主義政治への移行それ自体も、責任リスクの分担という意味合いが込められていたと言っていいだろう。

iStock / Getty Images Plus / metamorworks

 集団合議制による個体責任の軽減は合理的だが、組織のすべての事項を集団合議によって結論付けるわけにはいかない。「些事は軽き故に必ずしも合議せずともよし」、会社の基本戦略方針たる重大決定は合議に付されるが、日常の運営には様々な「些事」もあるだろう。これらの些事は、権限を与えられている各レベルの経営者・役員や管理職によって決裁されなければならない。そこでまたもや責任が生じる。

 この責任を回避すべく、決裁者が取り得る方法は何だろうか。基本的にこれも、聖徳太子が提唱する「論理的な議論」にほかならない。それでも決裁者は心細くなるときがある。特に前例踏襲によらぬ判断を強いられたとき、決裁者は不安に陥りやすい。その場合は、集団合意の代わりに前例や標準型にあたる一般モデルが決裁の根拠になる。これらの根拠のもとでなされた決定は、たとえ不良な結果を招いたとしても、前例やモデルがある種の免責根拠や「免罪符」となるからだ。

 免責根拠が見つからない場合、決裁者は「不作為」(提案否決など)を選ぶことでリスクを回避する。やらなければ、失敗もしない。しかし、「不作為」それ自体が失敗になることもある。その際、機会損失などの潜在的損失が生じても、とりあえず目に見えないだけに責任を逃れることができる。

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