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2019年4月16日

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樫山幸夫 (かしやま・ゆきお)

元産經新聞論説委員長

元産經新聞論説委員長。政治部で中曽根首相番、竹下幹事長番、霞クラブ(外務省)詰め、ワシントン特派員、同支局長、外信部次長、編集局次長、正論調査室長兼論説委員、産経新聞社監査役を歴任。2度のワシントン勤務時代は、ホワイトハウス、国務省などを担当、米国の内政、外交など幅広く取材した。

任期後、大統領職に挑戦

 副大統領経験者がその後、選挙で大統領職を勝ち取ったケースは、1945年以降、ニクソン氏(1969年就任)とジョージ・H・W・ブッシュ氏(先代、共和党、1989年就任)の2人だ。

 ニクソン副大統領はアイゼンハワー政権時代(1953年―61年)を通して、その職にあったが、いったん表舞台から姿を消した後、ジョンソン大統領が出馬断念した1968年の選挙に出馬して当選した。72年に再選された際の運動中、陣営スタッフが民主党本部に侵入したのがウォーターゲート事件だ。再選めざした選挙運動が政権の命取りになった。

 昨年死去した先代ブッシュ大統領は。レーガン政権(1981年―89年)で副大統領をつとめた。政権終了時の選挙で当選、そのままホワイトハウスにとどまる幸運を手にした。

 イラクがクェートに侵攻、米国がイラクを攻撃した湾岸戦争(1991年)を勝利に導き支持率が高まったが、経済低迷に足を取られ、92年の選挙で46歳のビル・クリントン前アーカンソー州知事に敗れ、1期だけで終わった。

 当選にはいたらなかったケースとしては、ジョンソン政権の副大統領をつとめ、1968年の選挙でニクソン氏に敗れたヒューバート・ハンフリー氏がいる。この選挙では、ジョンソン氏に〝引導〟を渡したロバート・ケネディ氏が本命だったが、選挙戦最中の6月に兄同様暗殺されてしまったため、ハンフリー氏が党幹部の話し合いで急きょ、候補者に指名された。本人にどれだけやる気があったかは不明だが。副大統領の重みが出馬につながったケースだ。

 民主党のカーター政権の「副」、後に駐日大使も務めたウォルター・モンデール氏も1984年、レーガン大統領の再選を阻もうと挑戦したが、大敗を喫した。

 クリントン政権(民主党)のアル・ゴア副大統領は後継めざして2000年、ジョージ・ブッシュ氏(2代目)と激しい選挙戦を展開したが、選挙結果がもつれにもつれた。一般投票ではブッシュ氏を上回ったものの、フロリダ州での再集計の結果、僅差で同州の選挙人を獲得できず、不運に泣いた。法廷闘争にまで発展した騒ぎは記憶に新しい。

職務多様化が重みもたらす

 大統領を超える存在として描かれたチェイニー氏のケースは別としても、近年になって政府の職務が多岐、多様化し、副大統領が多くを担う傾向が強まっている。そのことも副大統領職に重みを加える理由の一つになっているようだ。

アル・ゴア氏は環境、高速通信といった新な政策分野を担当、実質的な「首相」(米国に首相はいない)に例えられた。少し古いところでは、1978年、カーター大統領の仲介で実現したイスラエルとエジプトの歴史的なキャンプデービッド合意において、モンデール副大統領が大きな役割を果たしたという。

 副大統領に与えられた数少ない公式職務のひとつに「上院議長」がある。法案の採決が賛否同数になったときに、副大統領が裁決する制度で、その機会は希であるようにみえるが、決してそうではない。

 最近では2017年2月、トランプ政権の発足直後、教育長官の指名承認人事が賛否50―50の同数となりペンス副大統領の裁決で承認がきまったし、2001年にはチェイニー副大統領が、可否同数になった議案7件について、それぞれ裁決している。

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