大尽が喜ぶ企画を次々開催
谷が中国詩から名前を選んだ背景には、この店が創業当初から文化的交流を担うサロンの役割を果たしてきたことがある。
「書画会を起こし、文人墨客を全国から集めて作品作りをしてもらいました。中には3年も居続けて描いた人もいたそうです。そうしてできあがった書や絵を大広間に展示して、評判を呼んだんです」
店名を変えた後も繁盛し、明治25年(1892)、約1キロ東の稲荷新地に新築移転。それでも押し寄せる客を収容できないため、次々に建て増しをした。
明治30年頃からは、梅盆栽を飾るようになった。座敷や廊下に300鉢ほどが並ぶさまは圧巻。日本一との評価を得て、1月から3月には、全国から梅を愛でる粋人が集まるようになった。
明治40年には、現在の店舗があるはりまや橋そばに、支店の中店(なかてん)を出店した。
映画では美しい芸妓たちが揃って廊下を歩くシーンがあるが、それはまさに「得月楼」での日常だったという。
「一晩に1000人単位のお客さまが利用されていました。そのためうちは、何百人もの芸妓を抱えていたんです。高知は東京や京都と違って、芸妓の置屋はなく、店が抱える仕組みでしたから。本店と中店とで違いを出そうと、踊りは、本店では高知で主流だった若柳流、中店では坂東流にしました。
浦戸湾に浮かぶ丸山台という小さな島に家を2軒建てて、ポンポン船で客と芸妓の乗る屋形船を引いて島に行き、向こうで2次会をすることもあったそうです」
大尽が喜ぶ企画を次々に打ち立てたことが、店を繁栄させていった。