日本人秘書が明かす李登輝元総統の知られざる素顔

2019年6月20日

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早川友久 (はやかわ・ともひさ)

李登輝 元台湾総統 秘書

1977年栃木県足利市生まれで現在、台湾台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業。大学卒業後は、金美齢事務所の秘書として活動。その後、台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフを務めるなどして、メディア対応や撮影スタッフとして、李登輝チームの一員として活動。2012年より李登輝より指名を受け、李登輝総統事務所の秘書として働く。

なぜ、娘たちに日本語を学ばせなかったのか

 そんな李登輝夫妻だが、実は二人の娘は日本語が話せるとか、日本留学をしたことはない。もちろん、多少の日本語は解するが、台湾の知識人の水準からいえば標準レベルだと思う。2014年の訪日時、同行した台湾メディアが「それぞれの日本語力は?」と姉妹に聞いた。姉の安娜が「小さい頃から、家庭内で両親の日本語はよく耳にしていたから、習ったことはなくても3割くらいは分かる」と答えたのに対し、妹の安妮は「聞く力は20%」くらい、と答えている。

 そう聞くと、私でなくとも、NHKニュースを見て、『文藝春秋』を愛読するような夫妻の子どもたちが、なぜ誰も日本語が使えたり、日本へ留学したりすることがなかったのか、と疑問に思うだろう。

 以前、一度か二度、世間話のついでに「どうしてお子さん方に日本語を学ばせるとか日本へ留学させるということを考えなかったのですか」と李登輝に尋ねたことがある。

 ちょっと困ったような笑顔で李登輝は「子どもたちが何を勉強しようか、うちは自由なんだ。親がいくら日本との関わりが深いといってもそれを子どもたちに強制することはなかったよ。それだけのことだ」と、いつも多弁な李登輝にしては言葉少なに答えたのが却って印象的だった。

 これは私の推測だが、この答えの半分は正解で、もう半分の表に出さない答えがあるのではないかと思う。子供の自由な選択に任せる一方で、やはり台湾の戦後に暗い影を落とした「白色恐怖」が無意識のうちに李家から日本を遠ざけていたのではあるまいか。

 当時の台湾では日本語はご法度であった。戦後に始まった日本語禁止令が、80年代後半に解禁になるまで、日本語を公の場で話すことはもちろん、観光客などが日本語の新聞や雑誌、書籍を台湾へ持ち込むことも禁止されていた。ましてや日本統治時代、帝国陸軍少尉として戦った李登輝は「スネに傷あり」の身分なのだ。

 子どもたちの自主性を尊重するという両親の教育方針と、日本語を学んだり使ったりすることで、子どもたちの身に災難が降りかかることを回避しようという意識が、知らぬ間に働いていたのではないだろうか。

 余談だが、李登輝夫妻の子どもたちが学生生活を送っていた時代、台湾では大学で日本語を学べるところは限られていた。私立の文化大学や淡江大学に「東方語言学科」という名で、あたかも世を憚るように設置されていた程度だった。国立の台湾大学に初めて日本語学科が開設されたのは、民主化後の1994年のことである。

 実際、父親の李登輝自身でさえ、戦後の二度の留学はアメリカだった。修士課程を学んだのはアイオワ州立大学だったし、ロックフェラー財団の支援で博士号を取得したのもコーネル大学だった。このときのことを李登輝は「二度のアメリカ留学は『実務的な訓練だった』」と語っている。これは精神的な基礎を形作ったのは日本教育であり、戦後の米国留学は純粋な研究面での教育だったことを李登輝自身も認識していることを示唆しているのではなかろうか。

 自主性を重んじられ、自分の学びたいものを尊重してくれる両親のもと、娘たちはそれぞれ英米での教育を選択した。姉の安娜は現在、台中でアメリカンスクールの理事長として切り盛りしているし、妹の安妮は英ニューキャッスル大学で社会政策の博士号を取得した。現在はシンクタンクの研究者として勤務する一方、政治の世界にも携わるなど、父親と同じような道を歩んでいるのは妹のほうといえるだろうか。

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