中国史における農民の存在とは
思い出してもみれば、中国の農民は時代の変わり目において捨て身の主張・行動を起こし、いっぽうで時代の大きな荒波にさらされもした。
毛沢東時代における中国の農民は、人民公社の極端な平等主義による生産性の低下に喘いだ。それは、集団農作業で余り働かない人間と同じ給料しかもらえないのであれば手を抜こうという、極めて素朴な人間性の帰結である。
しかし1978年の末、中国でもとりわけ貧しいことで知られる安徽省北部・鳳陽県小崗村の農民が、飢饉で追い詰められる中で血判状をしたため、党・国家に秘密で集団作業から個人作業へと移行し、貧しさからの脱却を目指した。これは国家から人民公社(末端村落では生産大隊)への生産指示を農民に平等に割り当てて請け負わせ、超過分は各自が留保するというもので、漢語で「大包幹」「包産到戸」と呼び、のちに生産責任制と正式に呼ばれるようになる。
勿論、毛沢東が生きている間であれば、個人的な儲け分を期待して生産に励むこと自体「プチブル的な所有観念の残滓」として反革命罪に問われかねなかった。ところが幸運にも、当時の共産党安徽省委員会書記・万里がその有効性を認めて農民たちの決死の行動を擁護し、党中央に報告した。以来、それが社会主義に適合するのか否かをめぐる激論がなされ、ついに1982年1月には「中央一号文件」(全国農村工作会議紀要)が発せられたことで、生産責任制は社会主義集団所有経済に反せず、土地は集体(村党支部・村民委員会)の合理的な決定により使用すべきこととなり、人民公社は解体された。
農村が変貌を始めてから節目の2012年
したがってこの新年は、今日の中国農村の基本的な姿が出来上がって以来30周年である。そして同時に、中国の農村がさらに激しい変貌を始めてから20周年でもある。1992年1月から2月にかけて、当時の最高権力者・鄧小平は華南の経済特区をめぐって「南巡講話」を行い、外国および香港台湾の資本と技術を導入して大胆に経済を発展させることは、富強を目指す中国社会主義の精神と反しないと断言し、六四天安門事件や社会主義圏・ソ連の崩壊によって萎縮していた人々に「発財」せよと檄を飛ばしたのである。以来中国の農村は、沿海部においては開発区ラッシュとともに大きく変貌し、内陸部は低賃金労働者・二級国民としての「農民工」を送り出すところとなった。
しかしこの結果、中国の農村にさまざまな矛盾が生じていることは広く伝えられている通りである。烏坎事件は農村改革30年・南巡講話20年の節目において、その間に蓄積された矛盾が吹き出した典型的事例として記憶されることになろう。そして烏坎モデルの解決策は、時代の矛盾を打開する農民の声と行動が省レベルの共産党委員会にも聞き入れられたという点で画期的であり、同様の問題を抱える中国の膨大な農村における新たな自治モデルとなり得るのではないか、さらに中国における漸進的な民主化を切り開くことになるのではないかと広く注目を集めているのである。
烏坎事件は民主化につながるのか?
しかし筆者の見るところ、それが果たして本当に中国における民主化の端緒になるのか、些か疑問を禁じ得ない。
漢語の各種ネット記事を閲覧するにつけ、確かに農民の主張には、末端の変革に満足せず、国政に至るまで民意代表を選出するよう求めるものもあったらしい。とはいえ彼らは同時に、まず何よりも共産党中央を擁護し、党中央が反腐敗の旗幟を鮮明にして適切な判断を下すことを求めている。それは一応、直接体制と対峙することにより即座に鎮圧されることを避け、現在の国家体制と妥協しながら漸進的に社会変革を目指すものであるのかも知れない。