2019年10月23日、香港の大規模デモの当初の原因である逃亡犯条例改正案が正式に撤回された。そもそも市民側の抗議運動は、6月9日に起きた100万人規模の平和的デモと、同12日に起きた無許可デモ参加者に対する香港警察の催涙弾発射から本格化したものだ。
だが、条例案が撤回されてもデモは止まない。理由はこの運動の早期から、目的が条例改正案の撤回と異なるものにズレているためだ。デモ隊は7月上旬から、条例改正案の撤回に加えて、香港警察の暴力行為への独立調査委員会の設置、行政長官(大統領に相当)の普通選挙による選出などからなる「五大要求」を主張。さらに10月以降は、香港警察の解体・再編成や、同月に施行された覆面禁止法の反対も加わるようになった。
いまやデモ隊の原動力は、香港警察への怒りと、民意を無視した法案を成立させかけた香港政府のシステムへの反発、さらに若者層の反中国感情の表出などが主たるものになっている。
混乱の背景は、1997年の香港返還以降に徐々に拡大した政治矛盾だ。
香港ではもともと、イギリスの植民地体制下で「中国人」としての自己認識を持つ人が多数いた。反面、住民の多くは中国内地の政治混乱を逃れて移住した人々の子孫であり、共産党体制への不信感も根強い。
ゆえに返還当時、中国側の最高指導者である鄧小平は、経済都市・香港の独自性を損なわずにゆるやかな形で中国の主権下に置く方策を編み出した。香港人に中国内地の制度を押し付けず従来の社会体制を50年間にわたり保証し(一国二制度)、香港人による自治の実現(港人治港)をうたったのだ。結果、香港市民は政治的権利こそ一定の制限を受けたが、西側先進国水準の言論・集会の自由や経済活動の自由を引き続き享受できることになった。
わずか10年で進んだ「若者の中国離れ」
一国二制度はその後10年程度は順調で、2008年に香港大学が18~29歳の若者を対象におこなった世論調査では、自身を「中国人」と考える人が30%近く、対して「香港人」と考える人は約23%にとどまった。中国内地よりも豊かで自由でありながら、中国経済の好況の恩恵を受け、北京五輪の成功をはじめ中国人としての誇りも享受できる立場が歓迎されたのだ。
だが、中国が強大化した10年代に入ると風向きが変わる。豊かになった中国は、香港をさながら他の内地の地方都市と同様にみなすかのような傾向を強め、香港の独自性を顧みなくなる。
香港では返還前に約束されたはずの、行政長官の普通選挙による選出などの民主化政策は進まず、経済の対中国依存を背景に、中国からの政治・メディア分野への介入が活発化。また香港行政長官も北京の「操り人形」のように振る舞い、実質的な統治権力は中国政府の出先機関である中連弁(中央政府駐香港連絡弁公室)が掌握する。港人治港の理念は形ばかりになった。