20世紀の幕開けとともにはじまる中国革命は、何よりも列強の圧迫からの解放を念願としたから、18世紀以来の格差を是正するについては、確乎一定した姿勢がなかった。それまでの継続で格差に寛容な、いわば清朝流の方針もあれば、既往を認めず、格差を否定する明朝的な立場もあった。前者を体現したのが蔣介石の国民党、後者が毛沢東の共産党だといえようか。その後、両者が対立し、共産党が勝利するも、やがて共産党内部で右派・左派として、対立が再生産された歴史は、もはや言わずもがなであろう。
明朝的・毛沢東的な格差否定の政策は、官民の距離を縮めはしたけれども、厳重な統制経済にほかならず、不況と困窮を招いた。清朝的・鄧小平的な政策は、経済の活況をもたらしたけれども、ややもすれば格差の拡大を放置し、上下の乖離を助長して、権力の腐敗が現在も進行中である。基本方針を変えずにこれを正すには、たとえば清朝の雍正帝が断行したような、徹底的な綱紀粛正と政治改革しかない。それを怠ると、明朝なら16世紀・清朝なら19世紀の内憂外患、20世紀なら国共内戦に敗れた蔣介石の運命が待っている。こう考えると、温家宝の「政治改革」発言も、歴史的に意味深長なのである。
岐路にさしかかる中国
およそ学問研究にあるまじき安易なアナロジー、まさか明朝・清朝と共産党を同一視するとは、あまりにバカげた話だと、お叱りは覚悟の上。それでもあえて書くのは、時代・世情が移り変わっても、人間性およびその組織体である社会の構造の根本は、実はなかなか変わりにくいものであること、なればこそ、歴史を学ぶ意味があることを、少しでも感じてほしいがためである。
薄熙来失脚事件は、あたかも中国経済の減速と時を同じくして起こった。従来のような成長が見こめなくなって、経済の構造転換はもはや待ったなし。そこに「政治改革」も加わり、課題は果たして解決できるのか。失敗して、温家宝の警告どおり、共産党は「すべてを失う」のか。それとも、……。中国はいま、歴史的な岐路にさしかかっているのかもしれない。
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