2024年4月16日(火)

古希バックパッカー海外放浪記

2020年3月1日

遭難した沖縄の漁民の墓『大日本琉球藩民墓』

景勝地「太魯閣」は断崖絶壁の渓流。日本統治下で発電所建設のため工事道路を掘削。

 5月7日、四重渓谷温泉を後にして恒春を目指している途中で『大日本琉球藩民墓』という標識が目に入った。脇道に入り畦道を20分程走ると古い墓石と新しい墓碑と大きな墳墓があった。

悲劇の受難者を慰霊するとともに日台の友好を願う墓碑

 墓石には『大日本琉球藩民五十四名墓』と刻まれていた。1982年に建立された墓碑に由来が中国語・日本語で記されていた。1871年の“台湾遭難事件”で亡くなった54名の沖縄漁民の霊を弔う墓であり、爾来100年以上の幾多の歴史の変遷を経て、中華民国の関係当局、地元民の協力を得て日台の末代永劫の友好を築く架け橋として建てられたというような趣旨が読み取れた。

 明治維新直後の琉球(沖縄)の漁船が荒天に遭遇した海難事故であろうと想像した。墓には地元民が手向けたとみられる花、小銭、煙草などが供えられていた。約150年前の遭難犠牲者を今日でも地元の人々が弔っていることに日台関係の奥深さを感じた。

1871年の台湾遭難事件は日清戦争への伏線

西郷従道が建てた墓石

 後日調べてみたところ事件には筆者の想像を超える物語があった。奇しくも1871年に廃藩置県が公布されている。江戸時代に尚家が統治していた琉球王国は薩摩藩の支配を受け容れると同時に清国へも朝貢していたことはよく知られている。即ち中国と日本に二重帰属していたのである。

 1871年7月に公布された廃藩置県により琉球王国は琉球藩として鹿児島県に編入された。同年秋に宮古島の船が嵐で遭難して69人が台湾東南に漂着したのだ。

上 陸した一行は南下して当時の高雄州恒春群満州庄に至る。ここで土地の蛮族(パイワン族)に襲われ54人が落命。からくも生き残った12名が福建省経由で帰国している。

 当時台湾南部は原住民部族が実質的に独立割拠しており、清朝政府は福建省の役人が台湾府城(現在の台南市)に出張所を設けていただけである。

 明治政府は台湾での虐殺事件に対して北京の清朝政府に厳重抗議したが、清朝政府は言を左右して煮え切らない。清朝政府には琉球は清国の属領という意識もあったようだ。

『台湾を含めて中国は一つ』ってどうにも腑に落ちない

 清朝政府が虐殺事件は“化外の民”(中央政府の威令が行き渡らぬ蛮族)の行為であり清朝政府の責任外と回答してきたので、明治政府は1874年に台湾出兵を断行。

 清朝政府が台湾を実効支配していないと自ら認めたわけであるから、明治政府としては台湾現地で原住民への実力行使に踏み切ったのである。記録によると、この時総大将の西郷従道が建てた墓石は筆者が見た『大日本琉球藩民墓』であるようだ。

 清朝政府は日清戦争の敗北により1895年に下関条約で台湾を日本に割譲した。同時に同条約にて琉球(=沖縄)を日本の領土として正式に認めたのである。

 こうして150年を振り返ると中国政府が核心的利益としている“一つの中国”論には民族的にも歴史的にも根拠が希薄に思われる。ましてや尖閣列島がどうして中国固有の領土と喧伝できるのだろうか。

⇒次回に続く

  
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