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2020年3月16日

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出井康博 (いでい・やすひろ)

ジャーナリスト

1965年、岡山県に生まれる。ジャーナリスト。早稲田大学政治経済学部卒業。英字紙「ニッケイ・ウイークリー」記者、米国黒人問題専門のシンクタンク「政治経済研究ジョイント・センター」(ワシントンDC)客員研究員を経て、フリー。著書には、『移民クライシス 偽装留学生、奴隷労働の最前線』(角川新書)、『ルポ ニッポン絶望工場』(講談社+α新書)、『長寿大国の虚構 外国人介護士の現場を追う』(新潮社)、『黒人に最も愛され、FBIに最も恐れられた日本人』(講談社+α文庫)などがある。

 四国南西部に位置し、宇和海沿いから内陸に向かい広がる愛媛県西予市——。小高い山々が連なる地形を活かし、柑橘類の生産など農業が盛んな市だ。

 西予市は、住民の高齢化と人口減少に直面する地方の典型的な自治体でもある。2004年に5町が合併して誕生した際には約4万8000を数えた人口は、今年2月時点で約3万7000人まで減少している。そんな市に昨年、20人近いブータン人が就職して移り住んだ。

 豆腐類などの製造・販売を手掛ける農業法人「豆道楽」で働くロビン君(25才)の仕事は、毎朝5時半から始まる。会社脇の一軒家から出勤し、工場で豆腐や豆乳、湯葉などの製造に取り掛かる。

ロビン君とカーラ君、「豆道楽」渡邊邦廣社長

 「工場」といっても大規模なものではない。会社の従業員は、ロビン君ら2人のブータン人を含めても10人ほどに過ぎないのだ。出来上がった豆腐や湯葉も、1つ1つ手作業でパックへ詰めていく。

 「仕事はとても楽しいですよ。社長や会社の人たちも皆、いい人ばかり。もう、東京には戻りたくありません」

 そう話すロビン君の表情は明るい。東京の日本語学校に在籍していた頃と比べ、すっかり別人である。

首相出席の会場が凍り付く

 今から2年近く前の2018年4月10日午後——。ロビン君は東京・日比谷の帝国ホテル「桜の間」にいた。ブータンから来日中のツェリン・トブゲイ首相(当時)と日本で学ぶブータン人留学生たちとの懇談会に出席するためだ。

 100人近くの留学生が参加した会は、形式に沿い、静かに終わるはずだった。しかし、壇上のトブゲイ首相に向かい、会場から飛んだ発言で空気が一変した。

 「留学生たちは皆、日本で大変な苦労をしています。ブータンで背負った多額の借金を返済するためのアルバイトに追われ、勉強どころではありません。進学はおろか、来年の日本語学校の学費すら払えない状況なのです」

 英語で発言したのは、ブータンの民族衣装に身を包んだ日本人女性だった。会場の留学生から拍手が巻き起こる。

 「留学生を斡旋しているブローカーは、日本語学校から斡旋料を得ていて……」

 女性がそこまで話したところで、壇上脇にいたブータン人男性が怒鳴った。

 「あなたは何者なんだ! 何の資格で会に参加しているのか!」

 首相まで参加している会だというのに、会場は異様な雰囲気に包まれた。そんな中、男性を制するように大きな声を上げたのがロビン君だった。

 「首相、彼女の言っていることはすべて真実です。日本で借金と学費の両方を支払うことなど難しく、留学生活は続けるなんて無理なのです。どうか僕たちを助けてください!」

 ロビン君はブータン有数のエリート大学、シェルブツェ・カレッジで環境科学を専攻した。そして大学を卒業後、17年10月に日本へ留学した。ブータン政府が現地の斡旋業者と組んで進めた日本への留学制度「学び・稼ぐプログラム」(The Learn and Earn Program)に応募してのことである。

 業者はこんな誘い文句で留学生を募っていた。

 「日本で日本語学校を卒業すれば、大学院への進学や就職も簡単にできる。学費もアルバイトで賄える」

 その言葉を信じ、人口80万弱に過ぎないブータンから、約1年間で700人以上の若者が日本へと渡っていく。

 留学制度が始まった背景には、ブータンの社会事情の影響もあった。「ブータン」と聞けば、「幸せの国」を連想する読者が多いだろう。しかし、若者の間で失業者が溢れている。とりわけホワイトカラーの仕事は、大卒であっても公務員以外にほとんどない。「学び・稼ぐプログラム」も失業対策として導入されていた。

 政府が進めた制度とはいえ、留学費用は自己負担である。費用は日本円で120万円に上ったが、大半の留学生が借金に頼った。若手のエリート公務員の月収が3万円程度のブータンでは、「120万円」はかなりの大金だ。資金はブータン政府系の金融機関が年利8パーセントで貸し付け、5年間で完済するスキームだった。

 借金の返済は来日直後から始まる。そのため留学生たちはアルバイトに追われた。ただし、日本語が不自由なため就ける仕事は限られる。弁当の製造工場や宅配便の仕分け現場など、夜勤の肉体労働がほとんどだった。

 留学生のアルバイトには、「週28時間以内」という制限がある。その法定上限を守っていれば、翌年分の学費も貯まらない。仕方なくアルバイトをかけ持ちし、違法就労に手を染めるブータン人も少なくなかった。結果、徹夜の仕事が続くことになり、肝心の日本語の勉強も捗らない。

 「僕たちは、業者に騙されたんです」

 当時を振り返り、ロビン君は言う。

 ブータンに戻っても仕事はなく、借金だけが残ってしまう。そのため日本でアルバイトを続けるしかない。まさに地獄のような毎日である。

 筆者は、彼が暮らしていた日本語学校の「寮」を訪れたことがある。学校が借り上げた一軒家で、そこに20人以上のブータン人が詰め込まれていた。1人月3万円の家賃を払ってのことだ。寮は東京の外れにあるので、相場よりもずっと高い。学校がブータンの斡旋業者と組み、寮費までもボッタクリ、留学生たちを食い物にしていたのだ。

 来日から1年が過ぎても、進学や就職ができる見込みはなかった。18年12月には、将来を悲観したブータン人青年が、留学先の福岡で自ら命を絶った。アルバイト漬けの日々が祟って、心身を病む留学生も相次いだ。その中には、現在まで脳死状態に陥ったままの女子留学生もいる。

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