2024年11月22日(金)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2012年5月28日

 何は釈放後も警察の監視下にあり、何によると、「陳氏の脱出後、あなた(筆者)と私が北京で会ったことも、警察は知っているから、注意した方がいい」とのことだった。記者との面会は原則として許されておらず、筆者が何と会った場所についても彼女は「秘密にしておいてほしい」と稔を押した。

「かごの鳥が抜け出した」とメール

 ブルーの華やかなワンピース姿で現れた何培蓉はこう漏らした。

筆者の取材に応じた女性人権活動家・何培蓉氏(筆者提供)
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 「最も驚いたのは陳氏が脱出したこと。第2の驚きは米国大使館に入ったこと。そして大使館から出たことです」

 何は、陳が北京の米大使館に入ったことを知らずに拘束され、釈放前の5月3日に警察から聞いてその事実を初めて知った。さらにその時、既に陳は大使館を出て入院していたのだ。何に陳脱出後の状況について振り返ってもらおう。

 「かごの鳥が抜け出した。どうしよう」

 何がこういうメールを、東師古村にいる陳の兄、陳光福から受け取ったのは4月21日午前11時6分だったという。陳光誠の自由獲得に向けた活動を展開してきた何は、軟禁されている陳光誠とは連絡の取りようがないため、光福とのメールとのやり取りを通じて陳光誠に関する情報を得てきた。

 何はちょうど20日から北京にいて、21日に「救出劇」のもう1人の主役・郭玉閃(北京在住の学者)と待ち合わせする約束があった。「鳥」とは当然、陳光誠を指す隠語だとすぐ気づいた。

 何培蓉は「分かりました。北京にいます」と返事した。

20時間以上に及ぶ「脱出劇」
8カ所の塀を乗り越える

 陳光誠が自宅を抜け出したのは19日午後9時以降とされる。陳は筆者の電話取材に当時の状況についてこう語っている。

 「見張りが水をくみに行った数秒の隙を逃さず、わが家の塀をよじ登り、隣近所の家にたどり着いた。その後、ゆっくり一歩一歩、約16時間をかけ、計8カ所の塀を乗り越えた」

 塀だけではない。村じゅうに張り巡らされた数十人に上る見張りの暴漢らの目をどうかいくぐるか、が最大の難関だった。同時に、村には7カ所以上の監視所があり、陳氏の動向や外部者の進入に目を光らせていた。すべて突破しないと、村を抜け出せないのだ。しかしアクシデントが起こった。陳は続ける。

 「5カ所目の監視所で転倒した際、足を負傷した。痛くて立てなくなり、這って進む以外になかった。その時が最もつらかった。村を出るまでまだまだ多くの人的障害(見張り)と自然の障害が残っていた。最後は這って村を抜け出した」

 200回以上も転倒し、東師古村を抜け出して比較的安全な場所に移動するのにさらに数時間を要し、壮絶な「脱出劇」は計20時間以上に及んだ、と陳は振り返った。

気迫あふれた陳、北京の隠れ家に

 陳が一息付いたのは隣の西師古村に入ってからで、村民が陳をかくまってくれたのだ。陳が2005~06年、地元当局による強制中絶・避妊問題を告発した際、この村民を支援したことがあり、村民は逃げて来た陳を助け、その後、兄の陳光福に連絡したのだ。


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